表登山道から東登山道へ二時間ほどで周回できるコースには、整備された遊歩道が続いている。
嵩山(群馬県中之条町)は随所に東屋が点在し、気軽にウォーキングを楽しめる霊山である。
三十三観音が崖下に安置され、山を歩きながら霊場巡りをしている気分になる。山頂直下には鎖場もあり、ちょっとした登山の醍醐味も味わうこともできる。但し岩峰には違いないので、侮ると危険である。
山を歩いてくるといろいろ考える。普段ほとんど頭を使わない。それなのに、山を歩いてくると何かが私を突き動かし、眠っていた頭に活を入れてくれる。
嵩山は、アスレチックをするような山だった。
里山の低山でも、気を抜くと大けがをする。まして岩山で鎖に頼るような所は、緊張感と慎重さが要求される。嵩山も頂上まで行くとなるとそんな緊張感を齎す。難所を回避すればハイキング気分で歩けるが、コースをすべて歩くとなると、緊張感をもって登る必要がある。
普段感ずることが無い緊張感、ワクワク、ドキドキ感。
そんな感覚が自分に蘇ると楽しい。山は安易な気持ちでとっかかると、必ず手痛いしっぺ返しを返す。自然は常に「甘く見るなよ」と言いかけて来る。
臆病な私は、岩場では転げ落ちないようにと必死に鎖につかまり、足場を探りながら上がり、そして下る。我ながら無様な恰好で取り付いていると思うが、そんなことはどうでもよい。
慎重に慎重に、上がりきったり、下りきった時のほっとした気持ちは、自分の心を昂揚感で満たす。何とも楽しい。しかし「もう二度と試みたくない」とその時はいつも思う。
でもでも である。翻って見ると何度もそんなことを行っている。
何故だろう?それは「楽しい」の一語に尽きるかもしれない。
楽しいから苦しくてもやる。そう何事も「楽しい」それが原動力になっている。厭なことは無理してやらない。厭と心の中で思って取り組んで長続きした験しがない。ストレスでおかしくなることばかりだった。
そして思った。
「場(環境)を変えよう。きっと何か新たなことに出会うはず。限られた一生である、たとえ生活は苦しくとも、「楽しい」と思えることにまい進しよう」
そんな思いが、信州での暮らしのベースになっている。
そうはいっても、現実は日々トホホの繰り返しであるが、ひーひー言いながらも心に余計な負担がなく、ぼつぼつ生きている。
そんな生き方が私の身の丈に合っているかなと、霊山に行って、考えさせられました。
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