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私にとって北海度の山を一気に登る計画を立てるにあたり、もっとも畏れた山が幌尻岳であった。と言うのも深田久弥の幌尻岳の登山に次の一節があって、それが頭にこびりついていたからだ。
彼が幌尻岳に登ったのは新冠川上流からだった。その一節が私の記憶に深く残っていた。深田は静内から出発し、一番奥のダムの工事サイトの小屋まで林道を車で入り、その先を川に入って遡行して七つ沼にテントを張ったのだ。
「翌朝、地下足袋にワラジという格好で宿を出た。歩きだしから、いきなり川の中をジャブジャブ渡った。川筋がすなわち道だから、徒渉はそれから限りなく続いた。初めはなるべく濡れまいと心がけていたが、ヒザが濡れ、モモが濡れ、ついに冷やりと一物が水に犯されるに及んで、もう観念して濡れることには平気になる。」
幌尻岳の今の登山路は糠平町から入り、糠平川を辿る。それでも沢の中を幾度も渡渉すので、この文章が頭から離れなかった。しかしそれは道が違っており、気苦労に終わった。
ただ北海道に入って最初にこの山を登ろうとして「とよぬか荘」にきた日、その前日に雨が降り、遭難騒ぎが起きていたのだ。助けられた人は胸まで水につかったと言う。いわばカールに振った雨水が鉄砲水のように糠平川に流れてくるのだ。翌日は登山禁止となった。
深田はこの山を冒頭で紹介する。
「幌尻岳は日高山脈の最高峰である。十勝と日高の国境を仕切って長々と延びたこの山脈から、もし一つの山を選ぶとしたらどれだろう、という疑問が、まだ地図でしか日高を知らぬ私の胸に久しく宿っていた。そしてこの地域の山々に詳しい人々が、異口同音に答えてくれたのが幌尻岳であった。日高で唯一の一千米峰であるのみならず、その山容からいっても、貫禄からいっても、日高の代表として十分の資格を持っている、ということであった。アイヌ語でポロは「大きい」、シリは「山」の意。その名もまた快いではないか。」
戦前、戦後にかけてこの山の登山史は、深田が『高原』というアンソロジーを撰集して出版した中に佐々保雄、「日高の圏谷」という文章を収めたとあるから、戦前からもしれていたと言える。
「しかし日高の山はそう簡単には入れない。道も定かでないし、小屋もない。テントと食糧をかついで、目ざす山頂へ達するまでに数日を費さねばならぬ。そんな山を求めて、年傾いた私か宿願を果すことの出来だのは、北大山岳部の諸君のおかげであった。」
「ようやく源流に近くなって、沢に水が無くなり、カラカラした岩の上を踏んで登って行くと、遂に広い原の一端に出た。幌尻岳の圏谷の底にあたる所で、七つの沼が散在しているので七。沼と呼ばれている。その一つの沼のほとりにテントが張られたのは、もう夕方で薄暗くなっていた。」
と言うように、この山は世間に知られた山ではないから、この山の短歌を探すことなど無理だと思っていた。
しかし、この山への思い入れは強く、実際に山頂に立った時から、短歌を探していたら、なんとあった。
ホロシリの白稜線さうなのだ夢のつづきのなかにまだゐる
帯広の歌人、1946年生まれの時田則雄であった。
私はネットで検索していて偶然得られた歌なのだが、とてもうれしかった。しかもと北派歌集『ポロシリ』と言うのを出していた。
まあ、もし深田が短歌を詠んでいてくれたなら、短歌を探す苦労はないのだが、ついでに言うと百名山の山で、平ケ岳、巻機山、雨飾山、皇海山、黒部五郎岳、鷲羽山、笠ケ岳、荒島岳、宮之浦岳などが歌に不遇な山で無事に百名山を短歌で歌えるかは心もとない。
時田則雄の歌手を2冊求めているが、まだ届いていない。
・・・・・・・
後日届いて五首を得た。
歌集「ポロシリ」
ポロシリに向か費て二キロほど行くきて戻り来ぬ明日を作り出さむと
ポロシリは静かに座ってゐるゆゑに俺は噴火をつづけてゐるぞ
ポロシリは今日も沈黙 前をみても後ろを見ても鈴虫の声
東京に暮らす娘よポロシリは雪を担いで輝いてゐる
ポロシリの嶺の白雪眩しければ百姓根性熱帯びて来る
大空を翔けゆく鳥をながめつつ人間であること忘れをり
最後の一首は歌集「オペリペリケプ百姓譚」より、この歌集にはポロシリはなかった。二〇二二年八月五日追記。
ポロシリは神のごとき祈りの対象の山ですね。
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