山にも足しげく行くことができないのは、コロナのせいではなく、単純に経済的な理由であって、遊ぶ気がしないわけです。
体力をつけて長生きして90歳まで山は歩くつもりでいます。その先も。で、家にこもって何をしているかと言うと、最近日記に書いている様に短歌で百名山を巡る旅をしています。俺と合わせて最近古本屋ネットを見つけて歌集を買い集めていて、けっこう散財しています。その分山に行けばと思うけれどえ、短歌と古い時代の山の本が面白いのです。
つい最近木暮理太郎の「山の思い出」上下2巻を安く探しました。
1956年の1刷目です。昭和初期の登山の物語であり、いまとは全く異なる山の光景があります。
中西悟堂と言うお坊さんですが、日本野鳥の会のリーダーで、多くの山を歩き、歌を詠んでいる。その方の歌集『蕋一つ落つ』という和紙の本があって変形長形の豪華なもので、500部作ったうちの20番とあった。市販で1万円とあった。この人の歌集は3冊そろえてしまった。
藤沢古実という歌人は伊那の先生で、南アルプスや中央アルプスの歌が多い。この人の全歌集を手にして喜んでいる。
「尾瀬沼のほとり」という平野長英氏の歌集を御茶ノ水で見つけて勝っておいたのだろうが、改めて読んで感銘を受ける。
もともと歌集を買ったのは、窪田空穂の全歌集を以前持っていたが、塚本邦夫などの多くの歌集を譲ってしまった。短歌から離れていたのだが、再び始めているのだ。
今、「荒島山」という題の歌集が1冊あるのだが、手にするにはカネがいて、そのままになっている。福井の歌人大畑草雨の歌集である。
荒島山を詠んだ歌もみつからないし、見つからない百名山の山もかなりあることに驚いてはいる。屋久島の宮之浦を詠んで歌が無い。つまり歌人が誰も登っていないとも言える。一人ネットで屋久島登山を詠っている人がいたが、途中で終わっている。つまり山頂まで登っていた部分が詠まれていない
平ケ岳の歌もない。巻機山、火打山もない。
そうなぜに中西悟堂の歌集を買い集めたかと言うと、鷲羽岳の歌を彼が詠んでいると書かれていたからだ。でも実際にはなかった。「鷲」を詠ってはいたが、鷲羽岳の歌はない。水晶岳もない部類で、立山を詠った柳瀬留治が詠んでいるくらいかな。
深田久弥が百名山を書いた頃は、文学と山が結びついていた時代であったが、いまは全くのスポーツになって仕舞っている感じがないではない。やはり文芸のジャンルに山があっても良いと思うのだが、どうだろうか。その意味でとよた時さんという人の「山の神々イラスト紀行」なんて本もおもしろい。また秋谷豊という詩人の書いた『文学山歩』なんて本も面白い。
私の若い時には串田孫一の『山の絵本』などと言うのもありました。霧ヶ峰のクルポックル山荘などは、その本を読んで泊まりたいともっていたのだ。実際に一泊したけど。
そんなわけで山いけないけど、山を愉しんでいます。
景気がよくなったら、北アルプスを再びロングに縦走してみたいです。
いまはヤマレコの記録を整理して、一つの本にでもできるように頑張ってみます。百名山の短歌、面白いです。
それと合わせて、歌人が「貧乏」を詠っていることとか、「戦争」を詠っています。いずれそれらもテーマに取り上げていきたいです。ですから長生きしないといけないんです。
百高山の残り20も必ずの登ります。やらねばならぬことたくさんありますので弱音を吐いてはいられません。元気が何よりです。ヤマレコの記録にも手を加えています。
私自身で百名山の短歌を読み上げようと作家しています。歌詠む時が楽しいです。
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