短歌で詠う百名山24 那須岳
栃木県に属する那須岳は、歌人には愛されている山です。東北本線で矢板を過ぎると左手に見えてくる一群の山の塊だ。
「日本山岳短歌集」より那須岳の短歌。
み冬づく空の青さにそそり立ち大那須が岳は雪ふりにけり 橋田東聲
殺生石にむかひていま佇てりこれがかの奇しき岩かもただに焼けし岩 同
くだり来てふりさけあふぐ那須が岳の形いつかしくぬきんでて高き 同
硫黄谷ここに極まる山の腹臭気咽ばしく殺生石まろぶ 窪田空穂
雷の音雲のなかにてとどろきをり殺生石にあゆみ近づく 太田水穂
雷雲のかさなり赤く透きとほり石の毒気の面にふれくる 同
焼山の赭ら肌なす那須ヶ嶽木の間に近し道行く吾は 前田夕暮
日のてればてるほどさみし硫黄谷殺生石にむかひて歩む 前田夕暮
魔夏の日照りかがよへり那須岳の燃えつくしたる焼石の上に 下村海南
疾風とよもす篠原の中をゆく妻が眼鏡のひかるさみしさ 五味保義
硫黄とる人の家ある谷かげに冑笹山のなだりは昼くる 同
那須岳の頂近く晴れとほる今朝明方の風向は見ゆ 鹿児島壽戯
楡の木に赤き葉まじる岩の根に噴きいづる湯のおと鳴りやまぬ 同
噴きいづる湯のうちしぶく岩腹の楡のむらがりは花くさりたる 同
山の雨あがりて熱くなりし湯にまじりくる苔は底に片寄る 同
ひとときに山おろしくる霧の中になににあらそひて岩燕とぶ 同
ぬばたまの夜あけわたれる裾原にうごける雲は北に晴れゆく 山口茂吉
殺生石のかこひの中に入り行けり雨あとに踏む石やはらかし 同
石のうへに羽をふるひし小蜻蛉が落ちて死ぬるをたまゆらに見し 同
かぎりなく湧き立つ雲か那須岳のいただきは見えず晴れし朝けも 鹿兇島やすほ
松村英一が「那須高原」と題して二十首の歌を詠んでいる。
那須岳にかかれる雲の裏照らす夕日は低く傾けるらし
とどろきて岩の裂目に立つ煙黄色く白く風のまにまに
噴火口の底たひらなるが二つ見ゆ絶えず風吹く山の上にて
頂の上に吾あり硫黄の香ふくむ狭霧のみだれつつ吹く
学生等は寒がりながら流れゆく霧に声あげ弁当くらふ
実際に登山しての歌である。最後の歌はユーモラスだ。歌集「露原」に納められており、昭和15年の作となっている。
また、川田順が歌集「鷲」のなかで那須岳として18首詠んでいる。
那須岳にただに向へる朝日嶽けぶりは噴かねいはほおごそか
登山路は山の北側に回り来て溶岩砕屑を踏むこと多し
那須岳に硫黄採る男のする焚火岩陰にして火の粉を飛ばす
会津にも雪のある山をいまだ見ず北に又北に青嶺涯てなし
老妻は疲れて有らし温泉宿(ゆのやど)の小さき枕にはやも熟睡(うすい)す
最後の妻の描写に共鳴してしまった。
最後に斉藤茂吉の歌1首
那須嶽をふりさけ見ればふか谷に青葉若葉はもり上がり見ゆ
近代歌人の詠んだ那須岳の歌を集めた。それぞれを味わうには、また別の機会が必要だろう。最近の歌として、「うたのわ」から検索した作品を紹介しておく。
歌の巧手は別にして、詠い方や現代の感性などが感じられると面白いが、山を詠む人が少ないのもまた現実です。
那須岳に留らぬ深き那珂川も末は何れか水戸を差しつつ 浅草大将
薄紅に明けゆく那須の山路にざく、ざく、ざくと足音のみす 知久
群雲の にはかに那須の 山々を 包みて驟雨 襲ひ來たりぬ 恣翁
那須のみね声の下から雪ぐもはそり遊ぶ児に白き手を振る ななかまど
梅ヶ枝に載りて嬉しや那須の峰いましばらくは冬の顔して ななかまど
吹き荒ぶ那須のおろしを負荷として踏ん張り歩き贅肉落とす 露草
山がどれほど魅力的なものでも、人の目に触れる機会が少ないと歌に詠まれることが無い。その点、目につく山は歌も多い。
山岳短歌集の歌に「殺生石」が八首も出てくるが、殺生石の伝説として有名だとしている。伝説は「域の美女が日本に渡来して、玉藻の前と呼ばれて帝の寵愛を一身に集めたが、実は白面金毛の九尾の狐だとわかり、那須野へ逃げて、その怨念が『殺生石』なった」というもので謡曲や琴曲や芝居に取り上げられて、文学的な材料にされたと深田は述べている。特に芭蕉がわざわざその殺生石を見に行って、「野を横に馬引き向けよほととぎす」と詠んでいると書いている。しかし、現代では忘れさられているような話だ。
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