短歌で詠う百名山25 越後駒ケ岳
越後駒ケ岳
(尾瀬沼のほとり)
駒ケ岳八海山に秋日てり万年雪の白く光れる 平野長英
宮柊二
校歌の一部に必ず名の出づるいつかなつかし八海の峰
夢に立つ山紫水明雪白きは八海山と清き魚野川
ふるさとに行くこともなし魚野川越後三山夢にみつれど
年明けし越後三山郷人の心のごとく夢はかがやく
神のごと魚沼三山並びたまふ関越自動車ひた駈けくれば 「緑金の森」
あざやかに雪を甲ひてしらじらと国境する越の山「ああ」 「独碼」
汽車入りしくらき狭の奥深く越後の山の雪光る見ゆ 「藤棚の下」
大塚栄一
長きゆき晴れたる空に八海の荒き嶺より雲は沸き立つ
風花のひかりつつ飛ぶ夕映えの空に八海おほおどかに立つ
新潟の歌人宮柊二に故郷の山である越後駒について歌が無いか、宮柊二記念館に尋ねたが、返事はなく、私がノートに集めていた上記の歌しか、今は見つけられていない。深田は越後三山の中で標高が高いのは中岳で、信仰で有名なのは八海山だが、その容姿において越後駒を筆頭に挙げたと書いている。
それほどに見ると美しい山で、至仏や燧ヶ岳から見ると堂々としているし、枝折峠へ向かう途中から見ても美しいと思う。
それなのに歌が少ない。
「うたのわ」でも出てこないし、「八海山」で検索すると酒の歌になる。いまや日本酒の名前の方が有名なのだ。
したがって、平野長英が会津駒から眺めた歌が、一首あるだけで、寂しい限りだ。
宮は登山には興味を持たず、登山もしていない。大塚栄一も駒ケ岳には触れておらず、誰もが目にする八海山を詠っただけです。
駒ケ岳と言う名を持つ山は、北海道の駒ケ岳が多く詠われている。また秋田駒は百名山に取られておらず、秋田県は東北で唯一百名山をもたない。甲斐駒、木曽駒と会津駒とあり、その中で、一番不遇と思えるのが越後駒だと思える。魚沼郡には、平ヶ岳といい、巻機山いい、この越後三山を持つエリアであり、さらに苗場山も加えれば、一つの魚沼郡で4つの百名山を持つ特異なエリアであるにも関わらず、行政が協力していないから、観光資源を有効に利用できないでいるに違いない。その意味では山形県もいくつもの百名山を持ちながら、地味なのは、飯豊や朝日が地味なのは、行政の姿勢にあるのかもしれない。不便の儘であることは、ある意味良しとすることではあるが、世間に知られるのと知られないのとで違う。故郷の山を宝物に変える方法はないのだろうか。
深田は11月に駒ケ岳から三山を縦走している。
ちなみに越散駒ヶ岳を登って詠った歌は今のところない。
私は1965年に歩いた。以下ヤマレコに書いたもの。
「20歳の時、無性に越後三山を歩きたくなって、夜行列車に乗り小出からバスで枝折峠までバスで行く。正直、記憶の多くは失われている。
FACの会報に登山記録を寄稿したのだが、今それがない。もし見いだせたら訂正をするが、間違いなく縦走をしているのだ。写真は、当時カメラを持っていないから一枚もない。
2日目に中ノ岳から八海山に抜けるときに、オカメノゾキの手前で、向かいの岩肌にカモシカが絶壁の上にいたのを覚えている。確かこのときは同じ方向に行く人がいて、私が途中で具合が悪くなって、助けてもらったと記憶している。
中ノ岳は2085mあるが、オカメノゾキは1270mで800mも下がるし、登りかえすのだ。ここで顎を出してへたばった。このとき同じ縦走していた人に助けてもらったのだ。八海山は岩峰を通らずに巻道を行ったかもしれない。
千本檜で泊まったと思う。3日目に千本檜から大倉口に降りた。まだロープウェイはない時代だ。もう、50年も前のことだがヤマレコに記録しておく。」
いやはや、とてもつらい縦走であったと記憶する。
それだけこの三山はデカい。
新潟の短歌の愛好者にお願いしたいのだが、越後駒と、巻機山と火打山の歌を詠んで欲しい。巻機を一首だけ見つけたが、火打山は一つもない。とても優美な山なのになぜだ。
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