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<FACに入会>
一枚の写真がでてきた。登山姿の十七才の実に若々しい肌に張りのある自分に出会う。 途中ブランクはあるものの山は私の人生に深いかかわりをもつ。
登山の記録を書き残し、また四十すぎて触れあった短歌を通して、私自身の過ぎてきた日々を振り返るのもわるくないだろう。
私が十六才の初夏、山に憧れて一般の山岳会を雑誌に求め、当時上野界隈で会合をもっていたFAC(エフ・アルパインクラブ)に入会した。一人で登山を試みるより、やはりそれなりの仲間や、先達のいる会に入ることが必要だと思ったからだ。FACは当時四期生を募集していた。六人か七人が入会した。中村さん、飯田さん、大島さん、女性で田中節子さん、山下直美さん、小林久子さんだったと思う。 私が最年少であった。会長は木村さん、代表幹事が吉野さんだった。加藤さん、牛島さん、雨宮さん、田中さん、鎌田さん、源馬さん、鹿島さんなど、三十代、四十代の人達が活躍していたから、六月の上旬、上野駅に近い集会場にはじめて出向いたときは、幼い子供が迷い込んだ感じがした。しかしみんな暖かく迎えてくれたので、少しほっとした。特に吉野さんにはとてもかわいがられた。入会したのは十六歳だった。
新人歓迎会が昭和三十七年七月(十七歳になった)、丹沢の水無川の作治小屋の河原でおこなわれた。河原にテントを張り、山料理で入会を祝った。焚火を囲み、歌を歌い 酒が振舞われた。その時初めて日本酒を飲まされた。酒が体質に合わない事はこの時すぐにわかった。しかし、その時が大人の世界とのはじめての出合となった。
作治小屋にて
茶碗酒のまされて一寸ほど大人になる山の夜
夏に、秩父山行があった。雲取山からの縦走であった。キスリングをはじめて背負い、重い荷物にあえぎながら歩いた。雨のテントでの夕食はカレーライス。ニンジンの切り方が大きいと言ったら、雨宮さんに「黙って食え」としかられた。その後、私はその雨宮さんには随分と世話になった。やさしい先輩で兄のように慕ったが、一緒に長くはすごせなかった。
その翌年の冬に合同で、丹沢で、加藤さんと組んで勘七ノ沢の沢登りを行ったのだが、大滝で五メートル落下して、右足の甲を捻挫してしまった。なんとか稜線まででたが、下り道は、雨宮さんに背負われて下山した。物静かだが、力強い先輩であった。
こうしてFACの一員として、山との付き合いがはじまった。FACの活躍の舞台は、当時谷川岳南面であった。南面の沢筋のルートの開発をテーマとしていた。その頃は、魔の谷川岳と言われ、事故死が多く、危険な山の代表であった。一ノ倉沢や幽ノ沢などでの谷川岳の事故は新聞やラジオやテレビで頻繁に報道されていた。谷川岳との出会いは、そんな時代だった。
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