富 士 雪 上 訓 練
山行曰 64年11月21日(夜)日夜)」
11月23日
P(先発)L鹿島、大島・軍司、深田
P(後発)L加藤、雨宮、飯田、山下、小林久関根、額田 長森 古坂 高矯
去年(38年11月)のあの午後からの雪上訓練と云う二の舞を繰り返さない様に、今年は四人の先発を出し、なけだしの金 ?をはたいて馬返しまでタクシーをとばし朝が明けぬ内、お中道の直下に天幕を張り終り、本隊の到着をまつばかりと云う、去年と打って変った張り切り様で参った。
去年と同様、今年も大学山岳部の天幕や社会人山岳会のそれらがお中道を筆頭に、処狭しと張めぐらされていた。叉、積雪状態も去年と同様少しだったので、訓練する場所を見付けるのに苦労してしまった。
晴れ渡った空のもと、新人達は、恐さ半分、楽しさ半分と云った顔付きで、あの雄大を吉田大沢の傾面にアイゼンやピッケルの爪跡をつけていた。
初めて富士に踏跡参残した新人もあろう。はじめてアイゼンを付けた者もいよう。又初めてピッケルを握っただろう。新人として忘れる事の出来ない山行。
新人達は、『新人は冬合宿につれて行かない」と云う我が会の守られざる伝統をみごと打ち破って今年も又戸隠への往復切符を手にしたのである。増々築き上げられるこの伝統、富士雪上訓練が11月に企画される以上、叉、新人が参加する以上この伝統は守られるであろう。
伝統と云えば、今年も叉富士のピークには、ついに立てなかった。八合目までアタックパーティ七人全員が到着したがそこで三人残り四人で頂上アタックしたが一人欠け二人欠けついに一人になってしまい、Lの許可をもらって一人アタックしたが、吉田大沢をつめるのかやっとで、富士の外輪に立ち噴火口ものぞけたのであったが無情にも時間切れ一分前だったので、やむなく下降にかかったしだいである。おそらくピークまで標高にして、あと五米とはなかったであろう。
この様な伝統は一時も早く打ち破ってもらいたいものである。去年の雪上訓練と、天候も雪質も、混雑も同じようであったが、もう一つ同じものがあった。それは、富士吉田駅までの雪上訓練ではなく、『死の訓練』(オーバーかな)である。
再び若さを取り戻したのかそれとも、景後のアガキなのか、K先輩大いにハッスルされまして、キスリングを背負い、オーダーの先頭に立ち、かけだすやら歩くやら我々若い者がついていくのが精一杯という所であった。でも訓練される我々には、本当にありがたいことでした。自分の苦しさも顧みないで、我々の為にハッスルしてくれた先輩。先輩とは、いつもこうあってもらいたいつ亀、こう録ってもらいものである。
どうもあぃがとうございました。 (記 深田範人)
2度目の富士合宿で、雪上訓練を富士山で行うのが当時のことだった。いまでもそうかもしれないが。ここでピッケル操作さアイゼンを付けての歩き方などの訓練をした。
最後はキスリングを背負って五合目から三合目まで30分で下るという激しいものだった。死の訓練とはよく言ったものだが、若かったんでしょうね。
富士山の稜線に出るのはただごとではなくつらいものでした。九合目からは這いつくばるように登っていきますが、私もあとわずかな教理を残して敗退しました。
まるで新田次郎の本の様ですね、はいつくばっていないと飛ばされるんでしょう。
赤城山でも同じようなことが・・・
でも富士山は、たしかにつらかったですね・・
よし、今度企ててみるか。。8合目くらいまででしょうね・・・、きっと行けたとしても
私も馬返しから歩いて、恒例の富士の雪上訓練に毎年
参加していました。
hagure1945さんと同様頂上一歩手前で敗退して、未だに
頂上を踏んでいません。
昨年末にヤマレコ日記に載せていますので覗いてみてください。
http://www.yamareco.com/modules/diary/1289-detail-28190
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