短歌で詠う日本百名山 55 穂高岳
穂高岳を詠った歌は多い。現代では尚更であろうが、ここでは、私の目にとまった範囲の歌を歴史的に辿れるように見てみたい。明治後年、近代スポーツの惣明期、「日本アルプス」としてイギリス人ウェストンによって紹介されてはじめて国内にしられるようになった。短歌を集めてみるだけでもその歴史を垣間見ることができるかもしれない。
吉江喬松『槻の木』大正十五年
見はるかす穂高連峰神々し五百重の山を踏みしきて立つ
幼くて田ぞへのみちの行きずりに立ちて眺めし秀峰ぞこれ
名をとへど知る大もなく秋空にさんらんとして輝きし峰
吉江の歌は来島著『歌人の山』の穂高岳で紹介されている大物の歌。松本中学から早稲田に進み、坪内逍遥や島村抱月に師事し、青年時代は窪田空穂らと交友があった。明治十年に空穂が生れているので同年くらいであろう。その人の幼いころ、明治の後半まで穂高岳は「知る人もなく」、という状態であったことがこの歌から知ることができる。それが、大正十五年には有名になっている。昭和十年までに上高地にはホテルができ、徳沢園には百人収容の電話も引かれたホテルができるほどになる。当然ながら大正から昭和にかけて島々から上高地までバスが二時間かけて運転されていたのだ。しかしそれすらも今の賑わいと比べると今昔の感がある。
太田水穂『日本山岳短歌集』
のぼりきてまなこに向ふ穂高嶽こゑなきものの寂しさを見し
太田水穂は明治九年生れ、松本広丘村の人。下の句の「こゑなきものの寂しさを見し」に水穂の特徴がある。「日本的象徴」を唱え、写生と抽象の融合を図る。この歌は牧水にも似た感傷性をとれば歌集「続山上」までの作品とも思えるが、この歌の出典の歌集は今特定できない。「のぼりきて」と言う句は水穂の歌にままみられるものである。水穂は交友のあった窪田空穂とは違い、登山をする人ではなかった。しかし、この歌に関する限り、里から眺めて得られふ感傷ではありえない。徳本峠あたりから真向かいに見て初めてえられる感情のものと思える。
夏きたる信濃は麦の走り穂に一列しろき雪の山々
『続山上』に広丘村からアルプスを一望した歌と比べて見ると山との距離がまったく違うように思えるのだ。はるかに「のぼりきて」の歌は穂高に近づいてなければならない。
窪田空穂『濁れる川』大正二年槍ヶ岳に案内者を雇い登山する。まだ冒険に近い時期の登山である。
徳本の峠によぢのぼりふりあおぎ正目に見たる穂高岳はも
穂高岳正目に汝れを仰ぎ見れば生けらく神に似てあらずやも
穂高岳ほのに光らせ雨雲の深きをもりて夕日さしぬれ
しらかばの林をすきて穂高岳か黒く赤く荒き襲見ゆ
穂高岳嶺にのこれるいささかの雪の光りて素らは真青し
大正四年(この十月に槍ヶ岳に登り、さらに焼岳登山をする。その折に詠める)
天渡る雲かも暗き陰おとす青くかがやく奥穂高の上に
大正十一年今の裏銀座コースを縦走して、西鎌尾根より詠める
穂高岳この西面の崩れ面我が眼ひたむけ見あへてむかも 『鏡葉』
窪田空穂の登山は大正二年という二本の近代登山の幕開けの時代で、ガイドなしには山には入れない時代であった。『濁れる川』での穂高岳は徳本峠を越えて上高地に入ったおりの峠からの歌。子の時はじめて槍ヶ岳に登山する。この登山をもとに紀行文集『日本アルプス』を大正五年に刊行している。『鳥声集』の歌は焼岳からの歌。一昨年に登った槍ヶ岳の光景が忘れられないので、再び登山したのだと書いている。この歌は窪田が詠んだ穂高の歌としては有名である。『鏡葉』では烏帽子岳から槍ヶ岳への縦走を行って、西鎌尾根から見た穂高岳を詠っている。槍ヶ岳に比べて穂高岳の歌は少ない。
若山牧水 『山桜の歌』大正十二年
上高地付近
上高地付近のながめ優れたるば全く思いのほかなりき、山を仰ぎ空を仰ぎ森を望み渓を眺め涙端なく下る
いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあいつつ
まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見むため
山七重わけ登り来てかくばかりゆたけき川を見むとおもひきや
たち向ふ穂高が岳に夕日さし湧きのぼる雲はいゆきかへらふ
若山牧水が高山に遊び、岐阜から上高地に入ったのは大正十年九月のことである。これらの感動は現代でもあい通ずるものであろう。感動家の牧水に心情が一度上高地に行ったことのある人には必ず伝わるものだと思える。「山七重」とは、高山から平湯、安房峠を越えて来たものと思う。
中村憲吉 大正十三年
しら雲を絶えず空より吹きおろす穂高ヶ岳は山ながら巌なり
雲吐ける巌山見れば穂高見の神のおもての恐ぎろかも
「雲吐ける」の歌は大正十三年七月に燕岳から大天井岳から上高地に歩いた。そのときに詠んだ歌。作歌
したのは昭和二年のようである。牧水の翌年になる。
釈迢空『春のことぶれ』
ふたたびを
み雪いたれる山のはだ
いまだ 緑にあるが、
さびしさ
まむかひに
穂高ヶ峰の さむけさよ。
雪を かうむる
青草のいろ
釈迢空(折口信夫)が穂高を詠んでいたのは意外の感があるが、感傷的な歌である。『春のことぶれ』は大正十四年から昭和四年までの作品で構成されている。
昭和元年に南安曇郡の教育部会に「室町時代の文」を講演しているので、そのころの歌と思える。歌は徳本峠で詠まれている。そして小梨沢を経て上河内で温泉に入り宿泊している。釈迢空の『春の乍とぶれ』は行分けが特徴。石川啄木の影響を受けていた時期であった。抒情的で落ち着きのある歌だ。
彼が四十八才から五十二才までの歌を集めた第四歌集。昭和十年代に詠んだ歌集『初夏の風』(昭和二十三年)に次の歌がある。
おのづから壊えて落ちゆく岩むらの涸谷に鳴る音を聞きつつ
ザイルもてつなぎし三人の黒き影尾根づたふ見ゆ谷を隔てて
二十年の歳月、若き日実感のある歌と歳月を経て抱きつづける夢となる思いとの差は大きい。
歌集『素心臓梅』には昭和五十年に「涸沢圏谷」と題して、次男升二を伴って穂高を訪ねた折の歌二十二首がある。六十七才。二十一世紀に入ってば、八十の登山者もめずらしくはないが、当時とすればスゴいことだ。
五十年はるかなるかな前穂高きはめし主峰目交にあり
槍を発ち南岳北穂の尾根つたひくだりし老も我より若き
あと十日満山紅葉し雪来とぶ穂高の高処ほの黄ばみつつ
山歩き三日に余力のある覚え限界もさとるひとりのおもひ
涸沢に登りてほめられゐるわれや今宵の小屋の年長者らし
引用が多すぎたかもしれないが、最近自分も六十に向かう齢になって、これらの歌にはいたく共感するものがあり取り上げた。
佐藤佐太郎 『地表』
大き谷もちてそばたつ灰白の穂高の山は近ききびしさ
目のまへに大きなる山晴れをりて梓の川の音はひびかふ
秋の光ひたに照るとき石膚の穂高の山はかぎろいを持つ
佐藤佐太郎は明治四十二年宮城県に生れ、昭和二十年に「歩道」を創刊主宰する・アララギに軋哉斎藤茂吉に師事した。昭和八年尾瀬を、十年には蔵王を、二十六年には立山を登山し、二十九年に上高地に遊び、二十六首の歌を詠み、右の歌はその時に詠んだ歌である。彼の関心はむしろ焼岳にあったようで、焼岳の歌の方が多い。少し残念な気がする。
塚本邦雄『星餐図』(昭和四十六年)
ゑはがきの穂高曇りて紺青の処女雪にけがされし青年
塚本邦雄は戦後の時代を代表する前衛短歌の旗手である。私もこの歌人の影響はかなり受けている。塚本の第一歌集『水葬物語』は現代短歌に与えた影響は大きく、短歌の革新をもたらすものであった。昭和十年代に隆盛となった新短歌の挫折した短歌革新の意図をもち、古典から近代に至る全ての短歌の潮流を踏まえて、革新的な叙情をもたらした。新短歌は形式を打ち破ろうとしたが抒情は旧態のままであったといえる。塚本が山の名前を具体的に詠み込んでいるものはめったにない。中央アルプスの空木岳と、この穂高岳であろう。歌の解釈は読み手にまかされる。
来島靖生『肩』
挙じのぼる腕と踏みしむる脚とこの穂高嶺につくす一念
平成六年の夏、来島は涸沢から奥穂高に登り、前穂高を経由して上高地に下っている。その時の作品。六十三歳。窪田章一郎より時代が二十年後の六十代は、また一段と元気であろう。
白石昂 『西海』
前穂高奥の穂高と重なれるこの谷ふかく黒つぐみ鳴く
穂高嶺のかげ黒々となだれたる大きな杉原は湖につづけり
来島が『歌人の山』で紹介している今の時代の歌人の歌。大正池は湖とは言えなくなってきた。
穂高岳について多くの歌人と歌をあげてきたが、最後に私の愛読書となった『日本山岳短歌集』から歌を引用して終りにしたい。
鎌尾根の上にのぞける奥穂高を今うす雲のかすめゆくなり 大悟法利雄
穂高岳のこれる雲のうす蒼くひかると見れば空くもりゆく 豊島逃水
夕雲は凝りてうごかず穂高山何なればわが瞳なみだたまれる 四海多実三
めにせまる穂高のをねに雲むれて雨かとおもふ風のおろしくる 大井 廣
穂高峯は夕かげろひてほととぎす啼くこゑさびし聞きていそげり 本真楽寛
わが背の荒に吹き鳴る風の音穂高が岳はゐる雲もなし 醍醐信次
揺れやまぬ青葉のひまゆ穂高岳裴あらく雪光る見ゆ 横山光太郎
昭和十年に発行された歌集であるから、すべてそれ以前の歌である。大正から昭和にかけて登山がスポーツとして親しまれていたかを覗わせる歌の多さであろう。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する