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加藤文太郎のことは新田次郎の『孤高の人』で一応知っていたが、加藤自身の文章を読むのは初めてだった。五分の一くらいで時間切れになったので真面目に読んだとは言えないのだが、初期の山行では加藤も他のパーティーにくっついて行ってコバンザメ式(?)の登山をして、マナー違反を指摘されてしゅんとする場面があって、「無敵の登山者」というイメージを持っていた私には意外な感じがした。旧制高校生や大学生が幅を利かせ、エリート臭の強い世界だった当時の登山界には、加藤にとって引け目を感じる部分もあったのかもしれない。一人で山に登る、という自分の行き方を説明するのに加藤がドイツ語のAlleingänger (単独行者)という単語を引っ張ってきているのもかえって背伸びに見え、現在より格差の大きい階級社会に「プロレタリア登山者」として挑戦していった加藤の苦労と偉大さが偲ばれた。またこの箇所を読んで、ヤマレコの常連にして本格派、araigengaさんのハンドルネームはこのドイツ語からきているのかと勝手に納得した。
穂高岳山荘では新田次郎の『芙蓉の人』を読んだ。読み切れるとは思わなかったが、どんどん引き込まれ、最後は不覚にも涙してしまった。明治28年、当時世界に例のない高山での通年気象観測を成し遂げようと、富士山での越冬気象観測を志し、私財を投じて観測所を開設、死を賭してそれを全うしようとした野中到・千代子夫妻の物語なのだが、その背景にあるのは明治日本のナショナリズムの「青春」期であり、公の目的のために私財を投じ、身を挺して事に当たった多くの人々の存在だった。最近の日本では、戦前の過ちを繰り返すことを恐れるためか、一般市民が国家レベルでの「公共の価値」について表立って語ることを避ける風潮がある。それは分かるのだが、その結果として、人々は自ら公共の価値について考えて行動することを忘れ、「どうせ国の政治なんて」というシニカルな諦観に陥っているように思う。そんな我々に対して、100年前の野中夫妻の挑戦は熱くて重いメッセージを投げかけている。著者の新田次郎が、気象庁に勤務しながら作家活動をつづけ、観測部測器課長として昭和38年の富士山気象レーダーの設置を指揮した人であることも、この小説に緊張感を与えているように思う。野中夫妻の偉業はもっともっと知られていい。
下山して松本から新宿行の列車に乗り込む際、車内で読もうと駅構内の書店で新田次郎の文庫本を探した。棚を探しても見つからずに諦めかけていると、何種類か彼の本が平積みになっていた。新田次郎は諏訪の出身で、信州の山を舞台にした小説も多く書いているので、長野県民には特に親しみ深い作家なのかもしれない。私が選んだのは「小説にかけなかった自伝」で、これがなかなか面白かった。気象庁に勤めながら小説を書いていた折、午後6時ごろ帰宅し、夕食後7時から11時までを執筆に割り当てることで、公務と執筆を両立させ、次々と作品を生み出したこと。彼ほどの作家でも、そして直木賞を受賞した後でさえも、「次も書けるだろうか」「仕事の依頼はまた来るだろうか」という不安に常に苛まれていたこと。新潮社から全集が出ることになり、ついに第一巻が著者のもとに届けられた日、永年の努力がついに認められたことが嬉しくて、美しい銀色の装幀のその本を、大切に枕元に置いて寝た、という話を読んで、私は穂高岳山荘の図書コーナーで全集第5巻(芙蓉の人・モルゲンロート)を無造作に扱ったことが何か申し訳ないような気持になり、そして新田次郎という作家が今まで以上に好きになった。
山小屋での楽しみといえば、各地から来た同好の方々と山の話をするのが一番だが、山の上での読書もなかなか楽しいものである。
旅行中ぐらい景色見て人との関わりを持ったほうが、と分かっちゃいるのですが、旅先の本は楽しく、良く進みますね。なんででしょう。
僕も長期旅行などの際いつも、大作もスイスイ読めるのですが、山のフィクションはなぜか手が伸びなくて、読んでいません。新田次郎もです。映画やドラマや漫画なんか見ると、リアリティーにかけていたりする箇所など、なんだか細かいところが気になっちゃって、物語に入り込めないんですね。作り話なのに、こんなの違うってマジになっちゃうわけです。山でなけりゃフィクションも読むのですが。
新田次郎といえば奥さまの藤原ていの満州からの逃避行記録「流れる星は生きている」で圧倒されました。僕の母も満洲からの避難民だったので。長野県は満州棄民がすごく多いのです。新田次郎がサラリーマンやめて物書きになったきっかけの本だそうです。
いつか山登りが人ごとになったら、新田次郎でも読もうかと思います。
Yoneyamaさん、コメントありがとうございました。
確かに山のドラマや映画はなかなか入り込めないものも多いですね。新田次郎の小説は高校のころまとめて読んで、以後長らくご無沙汰していたのですが、岩も冬山も真面目にやらない私からすると、何となくそんなものかと納得してしまいそうな気もするのですが、今度機会があったら読み直してみます。
「流れる星は生きている」は読んだことがありませんが、タイトルからして人を引き付けるものがありますね。満州から引き揚げた人々が高冷地を開拓した、というような話は関東にもよくにありますが、そうした開拓部落の多くが限界集落になっているのを見るとさびしい思いになります。
新田次郎の小説は山岳小説と言われますが、本人も言うように山を舞台にした人間のストーリーで、それぞれの時代の背景が描きこまれているのが面白味にもなっているように思います。「芙蓉の人」も、明治の「青年期」のナショナリズムを背景とした話で、読むと素直に「明治の人は偉かった」と思えてしまいます。少し後の時期を対象とした「八甲田山死の彷徨」ではそのマイナス面を抉り出していますが。
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