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下流の阿曽原温泉小屋は、小屋営業はコロナ禍で中止としたものの、ありがたくもテン場は営業してくださいました。
今回は11/2の営業終了前の晴天の土日ということもあり、小屋側が把握しているだけで139パーティ/221人という大変な数の登山者が訪れました(テン場のキャパシティは本来30程度とされています)。
下ノ廊下の登山道である日電歩道(仙人谷ダムより上流)と水平歩道(仙人谷ダムより下流)は本来、黒部川水系のダム、発電所の保全用歩道として設けられたものです。登山者に開放されているのは、国立公園内にダムを造成する条件として登山者に開放するよう国から義務付けられているためで、雪渓が消退する時期から雪が降り始めるまでの短い間のみ公式に開放されています。
急峻な谷に囲まれ、気候も厳しい極めて過酷な自然環境の中で、電力事業草創期である大正末期から昭和初期にかけて築かれたこれらの設備。現在と違いソフトウェアは未発達で遠隔調査などできないので、人が直接其処に行かねば何があるか分からないこと、道具というハードウェアが未発達なので、あくまでマンパワーベースで拓かねばならなかったことを考えると、当時の人々の一方ならぬ熱意と活力が必要だったのだろうと想像します。
別に懐古主義者ではありませんが、現在の人々にそれだけの熱意と活力を持つことができるでしょうか。当時に比べるとソフト面でもハード面でも当時とは比べ物にならないほど発達し、ヒト、モノ、カネを繋ぐことが容易になりました。その分、一つのターゲットに対して深く掘り下げなくても何となく知ることも見ることもできる故に、物事の本質の追求が疎かになってしまったり、人間の五感、六感といった、本来備わっているはずの「素力」が減退したりしているように思います。
喩えて言うなら、自動車の自動運転技術は大変素晴らしいテクノロジィですが、人間の脳内世界の複雑な回路を完全に代償しようなどとは無理があると思いますし、人間がそのテクノロジィに依存すれば、運転するという能力は減退していくのではないでしょうか。
こうした論は語り尽くされたことなのかもしれませんが、登山とは本来、そうした素力を駆使して大きな自然と対峙するものだと思います。何でも外側から情報が入手できるが故、素力がなくともできる気になってしまいますが、実際に其処に立つためには結局「歩く」「担ぐ」「視る」「聴く」「感じる」と言った、人の内側から発せられる力を駆使せねばならないと分かると思います。
かつて、「銀河鉄道999」という有名なアニメがありました。機械人間になって永遠の生を手に入れることに憧れた貧乏な主人公の少年が、美女とともに999という宇宙列車に乗って無料で機械人間にしてくれる星まで旅をするストーリーです。
苦労の旅の末にたどり着いた機械人間の星で主人公が見たのは、永遠の生を得たがゆえに自堕落な生活をしている機械人間たちの姿でした。
人はおそらく、何かを得るために熱意を持ち、活力を発揮するのだと思います。そして、得るとそれらは消退する。いわば性と言いますか、業のようなものだと思います。もし永遠の命を得てしまえば、もはや生きる死ぬという言葉は意味をなさなくなるでしょう。
お山は四季折々巡りながら、人がどれだけ対峙しても超越できないものとして、たとえ得たつもりになっていても、結局はその傍から失いながらそこにあり続けます。人の性やら業やらなど、お山にとっては歯牙にもかからないちっぽけなもの。そう考えますと、お山の魅力の一つとして、人の素力を発揮できる途方もなく大きな懐を有する場所であることが挙げられるのかもしれません。
V字に深々と切れ落ちた黒部の谷を歩きながら、かつて其処に情熱を傾けた人々がいた跡を感じた2日間の旅でした。
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