山にはいろんな人がいます。
ハイキングする人。
岩や沢を登る人。
ピークハントする人。
縦走登山する人。
スキーをする人。
キャンプをする人。
ゆっくり歩く人。
ランニングをする人。
休日を山で楽しむ人。
毎日山に登る人。
ロープウエーやケーブルカーで一気に登る人。
ひたすら歩いて登る人。
野鳥を見に山へ行く人。
写真を撮りに山へ行く人。
絵を描きに山へ行く人。
遊ぶためだけでなく、生活のため、仕事のために山に入る人もいます。
林業に携わる人。
送電線や電波塔を維持管理する人。
山小屋で働く人。
登山道を作ったり直したりする人。
災害復旧に携わる人。
山で修行をする人。
狩猟をする人。
山で耕作をする人。
山菜やきのこを採りに行く人。
登山は山での人の営みの一形態に過ぎません。
山はみんなのものです。いわゆる「登山」をする人だけのものではありません。
山で発生した事故や災害は、すなわち「遭難」です。
林業や送電線の管理などで起きたのなら労働災害の意味合いもあるでしょうが、山で起きたことに変わりはありません。
遭難から「山菜採り」や「きのこ採り」を除外することに何の意味があるのでしょうか?
山菜採りやきのこ採りをする人の年齢が高いのかどうか私には分かりませんが、仮に高齢者が多いのであれば、遭難件数から山菜採り・きのこ採りを除外することは意図的に遭難者から高齢者を除くことになります。
遭難する人に高齢者が多いのは事実です。
この事実を認めたくないからといって、山菜採り・きのこ採りを除外するのは悪質な数字の工作ではないでしょうか。
なにより、こういう排除の考え方は登山者至上主義というか、自分の登山にしか価値を認めない思い上がった考え方だと私は思います。
登山する人、山で仕事する人、山菜やきのこを採る人。皆がそれぞれ山での危険を考慮して最大限の努力をする。それが遭難防止への道です。
嘘やごまかしを重ねたところで遭難はなくなりません。
山は自分だけのものと思っている人は、何十年と登山の経験があろうとも尊敬は得られないでしょう。
さて、自分に都合のよい仮説を正当化するため、前提となる数字を自分に都合よく操作しようとする、いつの時代でもそういう輩がいるもんですね。こういう詭弁も毎週毎日繰り返されると、信じる人もでてくるのかもしれません。
例の人は、たとえば「今、若者の間で空前の山菜採り・きのこ採りブーム!」とかになったら、ああいう主張はしないと思います。
例の御仁は現役時代のプライドが高い方だとお見受けしました。そんなの、山を前にしたら関係ないんですけどね。いつまでも自分自身を客観視できる、謙虚な気持ちで山に向き合いたいと思っています。
仮に遭難者が高齢者から世代交代したとしても、それは数字の上の話であって、一般論として高齢者がハイリスクである事実は変わりません。「遭難評論家」の例の人はそれが理解できないのです。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する