山行記録などもまったく載せていない(連れが書いてます)ので、せめて日記に山についてのあれこれを不定期に書こうと思う。時々何か書けとかポップが出てうるさいんだものw
若い頃(高校生まで)、山にはあちこちずいぶん行ったが、その後何十年もずっと離れていた。また山を歩きだしたのは、ここ数年のこと。
子どものころ(昭和40年代後半ころ)、丹沢に家族とよく行った。両親は若い頃、丹沢の沢にずいぶん通ったようで、特に戸沢の仲小屋は若い時からよく通っていたらしい。だから自分も小さいうちから仲小屋には数え切れないくらい行っており、ある意味もう一つの故郷みたいなものだった。
当時は大倉のバス停はまだ舗装されていなかったし、お店の場所も違っていたし、ボロかった。古い写真を見ると、「どんぐり山荘休憩所」という名前とブランコが見えるが、今のどんぐりハウスのことか。この前数十年ぶりに行った大倉は、あまりの変わりようにびっくりだった(人の数も)。
当時はそこから水無川を渡って、林道を延々と歩いて戸沢に向かった。この習慣のおかげか、今でも林道歩きはそれほど苦にならない。というか、むしろ好きである(とはいっても、昨年行った天城、筏場〜カワゴ平の13キロの林道歩きは、きれいな黒曜石がごろごろ落ちている素敵な行程ではあったがさすがに辛かったw)。
戸沢は山の中ではあるが、割と人間くさいところという雰囲気だった。道端の草むらの中に、太いケーブルが乱雑に打ち捨てられていたりしたが、今思えば、ちょうど戸沢〜花立間のロープウェイ計画が事実上の中止に追い込まれた直後だったのだ(昭和47年)。実現しなくて本当によかった! していたら、花立はさらに悲惨な状況になっていただろう(当時はまだ階段がなく、雨の日などつるつるで地獄だった)。
塔ノ岳に行く時も、大抵戸沢から花立に登るコースか、大倉尾根を登り、帰りに仲小屋に寄る、という感じだった。何回行ったか分からない塔ノ岳だが、表尾根など2回しか登ったことがない(ちなみにぼくはバカ尾根という愛称が嫌いだ。言いたくなる気持ちは分かるけどw)。
あとは鍋割山、まだ二股のあたりに、勘七小屋が健在だった。
仲小屋に行くと、いつも、囲炉裏の奥におじいが座っていた。おじいが、北村政次郎という名前だったことは、つい最近読んだ奥野幸道『丹沢今昔』で初めて知った。もちろん、小屋の裏手から表尾根に登る政次郎尾根の道を作ったのがおじいだということは知っていたけれど。何しろ小屋、というか戸沢そのもののような存在だったから、名前など知らなくてもよかったのだ。
おじいの作るきゃらぶきは本当においしかった。今でも普通に街中で売っている甘いきゃらぶきが許せず、大山参道のつくだ煮屋のきゃらぶきくらいしか気に入らなかった(ちなみに今一番のお気に入りは、伊香保温泉の階段の上、源泉に向かう途中にある増田屋というお店のきゃらぶきだ)。
この小屋にはいつも犬やねこが幸せそうに日向ぼっこしていて、都会育ちの自分にとって、本当に「田舎」「故郷」そのものだった。
小学生のころ、一週間くらいひとりで預けられたこともある。下のバンガローでおばさんに頼んでひとりで一晩泊まったり(そんなことがとても刺激的な年齢だったのだ)、政次郎尾根を駆け登ったり(数年前行ったらずいぶんと土が流され荒れていた)、おじいがお客さんとマージャンをやるのを眺めたり、しらみをとってあげたりしていた。
前述の『丹沢今昔』には、大日鉱山の宿舎だったものをおじいが買い取って山小屋にしたと書いてあるが、おじいはいわゆるサンカの出だったんじゃないかと思う(この言葉は「差別用語」だととあるサイトには書いてあったが、他にいい言葉がないので使う。ようするに、山の民のことだ)。どういう過去だったのかはまったく知らないが、そう思うわけは、おじいが亡くなった後、両親が、おじいは戸籍がなかったらしい、と話していたのを覚えているからだ。あるいは鉱山で働いていて、その廃鉱とともに、生きる場所を得るために、山にもっとも近い場所を選んだのだろうか。戦後の時代、そのような形で定住する他なかったのだろうか。
ちなみに大日鉱山は昭和8年ころに試掘が始められ、マンガンを中心に生産していたが、戦後すぐに閉山したらしい。
サンカの間では古事記のころの言葉がずっと生きていたらしく、ある意味、原日本人のような存在だといえる。だとしたら、おじいという存在によって、それが自分にも繋がっているわけで、これはすごいことだと思う。遠く霞む神話時代の歴史が、直接目の前に現れるような感覚だ。
そのため、自分は丹沢の山や山の神と何らかの繋がりがあるのだ、という思い込みが今でも少しあったりするw
高校生の時、ひとりで表尾根に行ったことがある(バスもヤビツまで行かず、蓑毛から登った)。学校の記念日で平日だったため、ほとんど誰にも会わなかった。会ったのはひとりだけ。行者ヶ岳の頂上直下、すぐ上を白い服の人が歩いていた。それまで気配もなかったのに。その人は、白装束で、しゃらしゃら鳴る錫杖を持っていた。当時は表丹沢が元々修験道の山であることなど知らなかったが、こういう人もまだいるんだーなどと考えていたと思うw
頂上に着くと、すぐそばだったのにその行者はもうどこにもおらず、ただ、木彫りの仏像が置いてあるだけだった(記憶では、円空っぽい荒々しい木彫りの仏像なのだが、『丹沢今昔』を見ると、昭和56年ごろまでは再建された石像があったと写真も載っている。ちょうどそのころなのだが自分の記憶の像とは全然違う)。わき道があるのかななどとのんびり考えていた。
はたしてその頃でも、表尾根を行者が歩いていたのだろうか。バリルートを歩いていたのかw 今思うと、不思議なのだ。あれも、丹沢の山が自分に見せてくれた、ひとつのイメージなのだと考えることにしている。
山というのは、不思議が不思議でなく、現実になりやすい空間なのだろう。
こんばんは。
昔の丹沢の様子、とても興味深く読ませていただきました。
花立までロープウェイが計画されていたとは、実現しなくて良かったと思います
「丹沢今昔」とても気になります。
新品は今は見つけにくそうなので、中古で探してみたいと思いました
≫hiroumiさん
長く読みにくい雑文に目を通していただき、ありがとうございます!
やっぱりロープウェイなどに頼らず苦労して登ると、その分景色もきれいに感じますよね。
アマゾンだと、中古でまだまだ買えます。自分もネットで買いました。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する