『江左三郡録』の名前は、辻涼一氏の一連の著作で初見以来ずっと気になっていたが、今年調べてみたら国文学研究資料館でデジタル化されたものを見ることができた。江戸時代の近江国坂田郡内の村について記述されている。霊仙山については、
一 久礼ヶ畑(榑ヶ畑)村 上丹生村より一里許(ばかり)奥山中にあり
一 霊山 当国にて伊吹霊山比良綿向とて四ヶ高山也。久礼ヶ畑村より三十町許にして絶頂に至る。絶頂を三国ヶ岳と云(いう)。近江美濃伊勢三ヶ国を目下に見る故名づく。仏原、釈迦岳、阿弥陀岳、鰐口岩、鞍掛岩など云所あり。峯に池三つあり、長(さ)十間、横三間程つづけり。
とりあえず標点を打って旧漢字を新字にして読んでみたが、最後の部分はくずし字が読めていない気もする。意味が通らないような。
いずれにせよ、近江の国の高山で、美濃から伊勢まで見渡せる山だ、という点が強調されているため、三国ヶ岳を絶頂とするのは一番高い場所(現在の最高点)ということでは必ずしも無いように思われる。霊仙山の変化に富んだ広大さが文章によくあらわれているようだ。
画像は、柏原宿から見た霊仙山方向
YAjinomotoさん こんにちは
霊仙山は鈴鹿でも好きな山の一つです。その歴史にも興味があり是非とも解明して下さい。ただ、そのまま今の霊仙山に当てはめるわけには行かないと思います。私が知っている限りでも二昔前には背丈を超える笹に覆われ登山道をはずそうものならどちらに行ったら良いか解らず大変でした。その頃でさえ当時あった池に行くのは至難の業でした。昔に3つ程あった池が何処なのか、山頂が何処を指していたのか興味があります。
話は変わりますが、辻涼一さんには霊仙山、正確には経塚山近くでお会いしました。今は懐かしい思い出です。
yjinさん、コメントありがとうございます。古文書や古地図と現在の地形を重ね合わせながら、あれこれと想像を膨らませるのが今やれる精一杯、というのが実情です。辻さんの『山の扉』だったか、池のこと、郡界尾根への谷山谷からの登路のことが心浮き立つような文章で描かれていましたが、ああした自由な想像を膨らませてくれ、歩いた後も浸ることができる、それが霊仙の魅力かと思っています。
個人的な推測でいえば、現在の三角点が釈迦ヶ岳と呼ばれる頂で、そこから最高点一帯が大きく中霊仙と呼ばれたのではないかと考えています。滋賀県の行政文書が閲覧できれば明治七年頃からの境界争論時に添えられたら図面ではっきりできると思いますが、今はそれもかないません。
また、池についてはyjinさんのほうが詳しいかと思います。池もたくさんありますよね。笹が枯れて剥き出しになった池は痛々しい程ですが、登山道から外れた静かな池は谷山谷界隈に隠れているのでしょう。
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