土合駅からの道の両側にはものすごい数の遭難慰霊碑が建ち並び、墓場のような雰囲気が漂い、またテントの脇を人が通るのでなかなか寝付かれなかった。この時点で谷川岳の遭難死者は500人前後に達しており、数年後に各慰霊碑を撤去して現在の合同慰霊碑が設置されたため、道はすっきりとした。
翌日、ガスの中を西黒尾根から谷川岳に登った後、仙ノ倉山を目指して最初は痩せた尾根を、後半は広々とした尾根を歩いて小さなカマボコ型の越路避難小屋まで行く。展望は一日中、ガスで何も見えなかったが、小屋で休んでいると風が出てきたのでガスが晴れるかと期待して小屋から出てみると、エビス大黒ノ頭、仙ノ倉山がガスの切れ間から非常に大きく見えて興奮する。しかし期待は裏切られて、すぐにまたガスに隠れてしまった。
翌日も前日以上のガスとなったが、赤い頭の道標が多くあり迷う心配はない。仙ノ倉山は谷川岳連峰の最高峰であるが、谷川岳とは正反対の女性的な丸みのある山で、ガスの切れ間からの残雪と新緑のコントランスが素晴しかった。平標山、松手山経由で元橋バス停には10:30には着いてしまった。
翌1966年9月、1967年7月と続けて谷川岳に登ったが両方とも雨で景色どころでなく、ただ濡れながら歩くのみで何も見えなかった。この谷川岳の天候の悪さが遭難を多くしているものと思われる。
4年続けての谷川岳は1968年4月21日に会社の山岳部4人のパーティーでマチガ沢をつめる事にした。雪崩が心配なので朝4:15にマチガ沢に入り、7:45には頂上に着く。
4回目にして始めて晴れ、周りの景色を眺める事ができた。その後の谷川岳登山でも頂上から展望は得られず、結局、このとき1回のみの展望となった。
下山後、天気も良かったので一ノ倉沢を見学に出合まで出かけた。初めて一ノ倉沢を下から見たがその迫力に圧倒され、魔の山の意味がなるほどと肯けた。私は岩壁登攀はやらないが、岩をやる人に「登れるものなら登ってみろ」と挑戦状を突きつけている感がする。
上越国境の豪雪地帯で日本海と太平洋の気流がぶつかり、天候が不安定なうえに岩が脆いので、残念ながらこれからもこの壁に挑戦していく人がいるかぎり、死者はゼロにはならないのであろう。谷川岳一ノ倉沢は魔の山のイメージ通りの山である。
写真:谷川岳一の倉沢
こんばんは。私が生まれる半年前の記録なんですね!
miccyanさん、いつも日記楽しく拝見しています。
山に登り始めて48年間、1年も欠かさずに細々とではありますが山に登り続けました。
永いこと登っていれば自然と百名山も達成しましたが地元の限定新聞に縁があって「日本百名山をゆく」との題で隔週に連載しているものをヤマレコの日記に転載させて貰っています。
これからも宜しくお願いします。
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