尾根は痩せており雪が多く、雪庇が残っている危険な状況であった。登っている途中、眼下の沢で大きな轟音とともに雪崩が発生し、私はこの時、初めて雪崩を目撃した。その後も2回雪崩の音を聞き、やはりこの時期は沢に入れないことを再認識した。これ以上は危険と判断して1600m付近で引き返した。
結局、合宿は清水部落から井戸尾根を巻機山往復するだけとなり、5月1日、六日町の駅から2時間15分歩いて薄暗くなった18時近く、まだ雪一面の清水集落に着いた。
翌日、順調に登り、ニセ巻機を過ぎた鞍部にテントを設営。避難小屋は雪に埋没してどこにあるか判らない状況であった。巻機山を往復して夕飯の仕度をしていると、埼玉山岳会のパーティーが、途中で2ツに別れた残りのメンバーが到着しないので捜索してほしいと依頼にきた。うちのパーティーからも3名を捜索隊として応援に出す。このころから雪が降り始め、風も強く、視界も悪くなっていた。疲労で動けなくなっていた埼玉山岳会のメンバーも無事に発見され、捜索隊の3名もテントに戻った。
翌日は最高に荒れた天気となってしまった。風よけブロックは風で倒され今にもテントが吹き飛ばされそうな状況であった。吹雪の荒れ狂う中、すぐにテントをたたみ下山開始。ニセ巻機では吹雪で飛ばされそうになり歩く事もできない。風の息の様子をみながら弱まったときに数歩進み、また体勢を低くし風を通り過ごすことの繰り返しであった。
その状況で先頭の私は、雪の張り付いた当時の重いテントを担いでいたこともあり、風でバランスを崩して転倒、滑落。日頃の滑落停止の練習は空身で行っていたが実際には重い荷物が邪魔して上手くいかない。必死になって身体を反転し、ピッケルを雪面に打ち込みかろうじて停止。幸いそれほど急な斜面でなかったので10m程度のスリップで済んだ。
気を取り直し風に注意しながら降りてきたが、今度は雪の亀裂(クレバス)に落ち込んでしまった。キスリングだけで止まった状態で身動きが取れず、皆に引っ張り上げてもらう。10時30分には無事、全員、清水集落に戻る事ができた。
このメイストームにより全国の山で遭難し亡くなった人が62人に達し、史上最悪のメイストームとして今でも語り継がれている。この時の経験が活きてその後、吹雪かれても落ち着いて判断・行動ができるようになったと確信している。
巻機山は女性的な容姿であるが山の恐ろしさ、吹雪の怖さを私に教えてくれた山である。
写真:巻機山頂にて
fujinohideさん毎度、1965年といえば昭和40年ですか、
このメイストームにより全国の山で遭難し亡くなった人がと書いてあるのに思い当たることがあったので、
古い記録を見たらありました、大先輩が甲斐駒ケ岳の摩利支天の岩壁を登りに行き途中から天候が悪化し、
テントの中でラジオで気象情報を聞き、天気図を書き今回はダメだと判断しました、
南アでは吹雪が荒れ狂い積雪が20センチ以上の中、、他のパーティーたちが強硬に出かけるのを横目で見、
「無茶なのがいる」と思いながら下山し新聞を見たら遭難の記事が大きく出ていたとと記録が残っていました、
そうです。昭和40年の5月でした。
当時も、マスコミも批判的な報道が多かったですネ。
昔は、山では必ずNHKの気象通報を聞いて、自分で天気図を書いていましたが、いつからか私も書くのを止めてしまいました。(社会人になりテント泊山行が少なくなったこともありますが)
コメントいただき、天気図を書いていたことを思い出し、懐かしく感じました。ありがとうございます。
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