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そんな富士山で数年前から村山古道を完全踏破して登ることと海抜0mの駿河湾の海岸から山頂まで登ることが夢となった。
村山古道については昨日の私の日記「富士山・・・村山古道」を参照にして下さい。
http://www.yamareco.com/modules/diary/3438-detail-4389
「NPO法人シニア大楽 山楽カレッジ」の畠堀操八さんにより村山古道の全工程を国土地理院1/25000上に記載した地図が作成され発行されたので入手した結果、この地図の通りに歩けば2ツの夢が同時にかなうことが判った。
そこで用事の都合で1度に海抜0mから山頂までは無理なので2回に分けて実行する事にした。その1回目として20日に駿河湾田子の浦の海岸から歩き始めて富士山スカイラインの標高1600m近くまで村山古道を歩いてきた。
このコースの前半は街中を含め舗装された車道で後半は本格的な山道となる。履物はどうしようか迷ったが登山靴でアスファルトの上を長時間歩くのも疲れるので後半の山道に少し不安はあったがトレッキングシューズで歩く事にした。
出発点は田子の浦の海岸にある古東海道吉原の宿場跡からとした。ここは元吉原と呼ばれて宿場があり田子の浦を船で対岸に渡った場所である。しかし度重なる高波と漂砂の被害で宿場全体が1639年に現在の富士市吉原本町に移動した。それに伴い、古東海道も元吉原から外れて旧東海道に変更になった。
田子の浦の高台から富士山を見ると広い裾野を広げており、今日、どこまで歩けるか不安になる。朝、6:10にスタート旧東海道に出るとすぐに名勝「左富士」にぶつかる。 江戸から京都に向かう場合には富士山はいつも右側に見える。しかし吉原の宿場が移動したため古東海道も付け変えられて旧東海道となり左富士付近で大きく曲がったために富士山が正面左に見えるようになった場所である。吉原市内を人通りの無いうちに通過したかったが狙い通りにほとんど人に出会うことなく通過できた。
吉原を過ぎると旧東海道から離れていよいよ村山に向かう道に入る。この辺りの道はいつも村山道とは知らずに車で走っていた道なので土地勘はある。ここからはほとんどが富士山を正面に見ながらの歩きとなり僅かずつではあるが近くなるのを感じながら歩く。
しかし第2東名高速などで村山道も断ち切られている箇所もあり、この道で良いのか自信がなくなる場面もある。そんな時、石に彫られた「左 村山」の古い道しるべがあり助かる。平安から江戸時代の古の人達が歩いたときは今でも民家の少ない村山道は荒れた原野だったと思われ、この道しるべを見て安心し勇気付けられたことであろう。道しるべは村山まで8箇所残っていてその内容は全て「左 村山」または「左 むら山」で左の案内ばかりあったのも不思議な感じであった。また村山の近くには明治になってから侠客の清水次郎長が子分達と荒野を開拓した次郎長新田もある。
順調に間違えることなく進んだが国道469号線に出て横断した後の道が判らず地元の人に確認して正規のルートを取る事ができた。村山入口には見付跡が残っている。見付は部落の入口の木戸で村山には東と西の2箇所にあって無断で富士山に登るような不審者の出入りをチェックしていたという。
村山浅間神社には予定より少し早い10:20に到着。大日堂の前では40代の一人の女性が熱心に手を合わせて何かお願いことをしている様子であった。この女性は私が昼食を食べ終わってもまだ1歩も動かずに拝しており、よほど辛い事、苦しい事が身に掛かっているのかなと勝手に同情してしまった。
ふと見ると、神社脇の駐車スペースに停車しているトラックの荷台で1匹の猿が遊んでいてびっくりした。村山浅間神社には数回来ているが猿を見たのは初めてでこの地区も猿、鹿が増えて困っているのであろう。
村山浅間神社までは約19Kmの普通の車道であるが車の往来は少なく危険を感じることなく歩けた。
ここ標高550mの村山から先は一般の山の登山道と同じ道となる。
この記録は以下に記入してあります。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-46556.html
村山浅間神社以降は明日に続く。
写真1:出発点の田子の浦港
写真2:道しるべ「左 むら山」
写真3:村山浅間神社境内の「富士山」の石碑
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