平安時代の末期から京都の裕福な人達が富士登山をするようになったと言われている。東海道を京都から吉原まで来て、ここから富士宮の富士山本宮 浅間神社にお参りしてから村山に入った。村山には京都の聖護院を本院とする興法寺があり境内には大日堂と浅間神社があった。明治になり神仏分離により大日堂と富士根 浅間神社に分離された。大日堂には鎌倉時代に奉納された木彫り仏像が数体、今も安置されている。境内には1000年以上の大杉やイチョウの木が立っている。
村山は富士山の登山基地であり江戸時代には村山三坊と言われる大鏡坊、池西坊、辻之坊のそれぞれ平屋100坪ほどの宿坊があり栄えたと言う。宿坊は主に京都などの関西の人が中心で江戸などの関東勢は東者(あずまもの)と呼ばれ少し低く見られ宿坊に泊めて貰えず先達などの民家に泊まったそうである。 そのうちに富士吉田、御殿場などに登山道ができ、関東勢はそちらから登る人が多くなっていった。
部落の入口には木戸があり不審者の出入りをチェックしていた。また木戸から部落に入ると身分の高い人も部落のしきたりに従わなければならなかった。富士登山をする人は大日堂の横で村山の法印大先達の指導により水垢離をして身体を清め、無事を祈り、先達に引き連れられて登った。
吉原と富士宮浅間神社と村山は三角形に位置し、吉原から富士宮浅間神社にお参りして村山に行くとかなり遠回りになる。従って直接、吉原から村山に裏道を行く人が多くなり、富士宮浅間神社から役人に村山に直接、行かないようにしてほしいとの要望書が残されているほどである。この裏道もりっぱな道で各地に村山への石の道標が設置され現在も残っている。
この村山からの登山道は富士宮口の登山道が車で2合目まで行けるようになり、更に新五合目まで富士スカイラインができた現在は歩く人も居なくなり廃道化してしまった。地元の関係者やボランティアが由緒ある道をこのまま廃道化するのは忍びないと復活に力を入れて最近、歩く事が出来るようになった。
更に、今年の7月に「NPO法人シニア大楽 山楽カレッジ」の畠堀操八さんにより村山古道の全工程を国土地理院1/25000上に記載した地図ができて一般にも1000円で販売されるようになった。私もさっそくこの地図を入手した。分岐などの要所、要所に写真が貼られていて非常に判りやすい地図である。この地図があれば経験者が居なくても歩けるのではないかと思い、昨日、工程の半分余を歩いてきた。
NPO法人シニア大楽 山楽カレッジのホームページ
http://www.senior-daigaku.jp/
地図申込のメールアドレス
[email protected]
写真の説明
写真1:吉原から村山に行く道の道標。この道標は明治に清水次郎長が開墾し た土地内にある。
写真2:富士 根本宮 村山浅間神社
写真3:苔むした村山古道の1部
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