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その中でも記憶に残るのは、3月5日(土)のBOAC機富士山墜落事故です。
私は土曜日の夕方から丹沢へ向かい、寒気の中懐中電灯で大倉尾根を登り花立まで来たとき、花立山荘から出て来た登山者が「また飛行機が落ちましたね」と話しかけて来ました。
前日の3月4日には羽田でカナダ太平洋航空機の着陸失敗事故があったので、「昨日の羽田の事故ですか?」と返すと、「今日富士山で飛行機が墜落したらしいですよ」と教えてくれました。
開けた尾根から西方を見渡すと、凍てつく星空の下に夜目にもはっきりと真っ白な富士山が見え、いつも見る富士とは異なり不気味に感じたことを覚えています。
後日、飛行機は富士山上空で乱気流に巻かれ、機体は空中分解して乗員乗客と共に御殿場登山口太郎坊付近に墜落炎上したことを知りました。
この山行で塔が岳から先どこへ向かい、どこへ下山したかは思い出せませんが、夜の花立での会話は今でも鮮明に思い出せます。(写真は同年1月棚沢の頭付近)
当時土曜日は半休が一般的で、午後から山へ向かい夜道を登るのは丹沢では普通で、山小屋も土曜日は一晩中休憩や仮眠の登山者を受け入れていました。
まだ中学生の私は、山小屋では先輩登山者達の間で小さくなっていましたが、一人前の大人扱いしてもらえるのが嬉しくて、精一杯背伸び

はじめまして。
土曜日に大倉尾根からの下山中、14時を過ぎる頃から、登り始める登山者何人かにお会いしました。こんな時間から登ってどこまで行くんだろうと思いましたが、山小屋に泊まれるんですね。
丹沢山まで行きたいとずっと思っていますが、私の足では日帰りは無理だなと、今回の塔ノ岳登山でも思い知らされました。でも、ゆっくり出発して、花立山荘で一泊して丹沢山まで行くという手がありましたね。それなら私にもできるかも。
それにしても、中学生でそんな経験をしていらしたなんて、羨ましいです。
拙文にコメントを頂戴し、ありがとうございます。
私は自己紹介欄に記した通り山登りはリタイアしており、最後に娘と丹沢(大山北尾根)を歩いてから15年以上経ってしまいました。
最近の丹沢の山小屋については、各小屋のホームページや皆さんの山レコをみれば宿泊可否が判るはずですが、山頂にある小屋は大体泊まれると思います。
ご無理をなさらず、山頂の小屋で一泊されるのもよろしいでしょう。
特に冬の夜景
私の場合、父親の手ほどきで山に登り始め、気が付いたら一人でも山へ行くようになっていました。
中学生の私が大人になる過程で、息苦しい日常から逃れられる
そんな私を放任してくれた両親にはとても感謝しています。
(私が山に行くようになって、生命保険を掛けたようですがw..
私も40年ほど前に尊仏山荘に泊まった時、夜の8時ごろになって到着した人がいて驚いた事がありました。
BOAC機の墜落事故はネットにも載ってますが、柳田邦男著「マッハの恐怖」に詳しく書いてありました。
冬の季節風がまともにぶつかる富士山の風下側は「剥離現象」と呼ばれる乱気流が発生しやすく、これによる飛行機事故がたびたび起きていたそうです。
高い山の上を飛行する時、その山の標高の五割増しの高度(富士山の場合は5400m以上)を飛行するのが常識とされていました。
しかしBOAC機の高度はなぜか4900mほどしかなく、高度が足りずに乱気流に遭遇して空中分解して墜落。
なぜこんなに高度が低かったのか。それは憶測ですが機長が乗客に富士山を近くに見せたかったのではないかと言われています。
もしそれが事実だとしたら、当時は機長の判断でそんな勝手な事が出来たのかと驚きます。
BOAC機の慰霊碑は太郎坊にあり、訪れて合掌しました。
長文失礼しました。
BOAC機事故の詳しい解説をありがとうございます。
当日は3月なのに真冬並みの寒さだったと記憶しています。
とにかく1966年は航空機事故の多い年でしたね。
自己紹介を拝見すると、国内のみならず海外の山も歩かれているのですね。
バイクツーリングも含めて行動範囲の広さに脱帽です。
六百山の日記を興味深く拝読しました。
山名は知っていましたが、恥ずかしながらそれほど大変な山とは存じませんでした。
これからもご活躍を期待しております。
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