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高1の春休みに友人達と八方尾根に出かけ、知人が経営するヒュッテに泊って、節約のために行動食を持って兎平や黒菱ゲレンデへ上がり終日過ごしていました。
まだバックカントリースキーという言葉は無く、山スキーと呼んでいましたが、天候を見計らって板を担いで第三ケルンまで登り、ゲレンデの外を滑る楽しさを知りました。
味をしめて二度目に登った時には見事に吹雪かれ、ここは山屋の領域だと思い知らされました。

おまけに片方のストックリングが飛んでしまい、だましだまし逃げ下りてきました。
ラグビーの練習日程をサボり、テキトーな理由をつけてスキーに来たため、せっせと日焼け止めを顔に塗りました。
しかし春スキーの雪焼けはごまかしようが無く、練習に復帰した時はバレバレでした。
キャプテンは何も言いませんでしたが、次の公式戦からしばらくはレギュラーを外されました。

それでもラグビーは楽しいので辞めようとは思わず、山やスキーにも性懲りもなく出かけていました。
当時はスキーブームが始まっていて、土日はリフトに乗るのに30分からひどい時には1時間以上待ちということもありました。
大学時代のスキーでは、私達は土日はあまりガツガツ滑らずに、ゲレンデの最上部まで上がって缶ビールや弁当をデポし、1本滑って上がってきたらビール、もう1本で昼飯and日光浴と優雅に過ごしていました。

日曜日の午後になればゲレンデは嘘のようにひと気が無くなります。
それから思う存分滑って、月曜日以降の平日に帰るというのも学生ならではの贅沢でした。
今思えば社会人になってからもこの癖が抜けず、月曜日まで休暇を取って周りの顰蹙を買っていました。
金曜日の夜になるとスキーバスの出るターミナル駅には、板を担ぎキャリーバック引いた男女が溢れかえった時代でした。
【写真1,2,3】当時のアルバムから
私のスキーは80年代なので少し違うかもしれませんが、当時の八方のゴンドラなんてもう大変でしたよね。
「私をスキーに連れてって」に憧れていたあの頃が懐かしいです。
コメントありがとうございます。
首都圏のスキーヤーにとって八方や志賀高原、上越苗場は憧れでしたね。
まだ高速道の無い時代で夜道を交替で運転してスキーに出かけましたが、天候によってはスキー場のはるか手前で積雪に遭い、笹子峠や塩尻峠でチェーンを巻く羽目になり、へとへとでスキー場にたどり着いたこともあります。
1960年代は三浦雄一郎さんがプロスキーヤーとして登場した時代で、私は彼の本に影響されて、エッジを研いでみたりワックスを塗ってみたりしていました。
技術よりも形から入る私の軽薄さは、いくつになっても直りません。
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