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2022年10月12日 11:16紀行文全体に公開

忘れられない2022年8月9日 朝7時頃

竹村新道で現る− 助けの神様 

心が折れる、心に染みる、足元が崩れるといった比喩的表現は、その時感じた心情を身体の部位を借りて表現するだけで、実際に身体がその通りになるとは限らない。

裏銀座、真砂岳分岐から下っていた私は、比喩的表現ではなく、実際に足元が崩れる事態に突如陥ったのだった。

今回の山行目的は北アルプスの最深部に鎮座する赤牛岳(通称レッドブル)を始め複数の日本百高山踏破にあった。
七倉に前夜泊、初日は高瀬ダムから急登のブナ立尾根を登り、烏帽子小屋経由野口五郎小屋へ宿泊、翌日は野口五郎岳・水晶岳経由赤牛岳まで足を伸ばし、ピストンで水晶小屋へ戻り宿泊、最終日は竹村新道で湯俣温泉経由高瀬ダムへ下山、途中南真砂岳へ登る予定だ。
左足裏、魚の目の痛み以外は比較的天候にも恵まれ順調に山行が進み、最終日は予定通り竹村新道を南真砂岳へと向かった。

遠かった赤牛岳へも無事に登れたことに満足し、後は荒れているという竹村新道を注意して下れば、長い林道歩き経由高瀬ダムへ戻れるとやや気が緩んでいたのかも知れない。
真砂岳分岐からザレた斜面をトラバースし、下方に南真砂岳が良く見えている尾根を下り始めたのが早朝7時過ぎだった。
南真砂岳は嫋やかな山容を下方に見せていて山頂へ続く稜線もハッキリ確認できる。風は強いが今日もまずまずの天気だ。地図もアプリも確認せずに、当然に尾根を下ってやや登り返して南真砂岳へ登るのだという誤認識のまま進んでしまっていた。
(それにしてもマーキングが全くない。少しおかしいぞ。)
そう思いながら尾根を下ったので、二度登り返してマーキングを探した。
しかし全くマーキングがないので、もう少し下ればマーキングが出てくるのだろうか、とそのまま尾根を下ってしまった。
実は大分手前で左のハイマツ帯へ巻いて降りるようにピンテマーキングが有るのだが、私は全くそのピンテに気が付いていなかった。見落としていた。

そしてベントの尾根を右から巻いてその先へ進もうとした瞬間だ。

足元が崩れた。

斜面全体、岩のガレ場全体で崩れていく。その中に自分がいる。
(まずい!)
考える暇もなく、先ずは滑落から逃れようと、尻餅をついた状態から身体を反転させ腹ばいの姿勢になり、自分の滑落を止めてくれる岩を両手で探した。数秒後に両手で崩れていない岩を掴むことが出来、流れ落ちる岩の崩落から抜け出すことが出来た。

(止まった。しかしこれからどうする。)

少し登り返そうと足を動かすと、再び緩んだ斜面は崩れて落ちていき、自分も再び滑落を始めてしまう。二度目の滑落も一度目と同じ10メートル位落ちて止まった。二度目の滑落が臀部と足先の抵抗だけで止まったのは、一度目とは違い幾分斜度が緩かったお陰だ。

アプリで現在地と正規登山道とが大きく離れずれていることを確認する。
(ずっと左だ)

崩落地をやや登り返しながらトラバースして登山道に戻ろうとゆっくりと動き始める。
少しでも確りとした岩を選びながら手を置き、足を下ろして進む。
一つ間違えると緩んだガレ場の崩落地は再び岩雪崩を起こしかねない。
ガレ場の尾根を二つ左に越えて行くと正規登山道へ復帰すると判断した。二つ目のガレ場の沢も尻餅状態で途中まで下らないと立ち上がれる場所に辿り着けない。
ズリズリ岩の上の尻滑りをしてやっと立って歩けそうな尾根に取り付く。
一度目の滑落で一本目が、そして気が付いたら二本目が折れていた。トレッキングポールは二本とも折れてしまっていた。これは今後の行程を考えると痛いがどうしようもない事実だ。
尻餅状態でガレ場の岩と一緒にズリ落ちるので、臀部や肛門辺りが岩の角に当たって痛い。
しかし足の骨折や捻挫はないようなので動くことは出来る。
不幸中の幸いだ。
二つのガレ沢をトラバースしたら下の方にピンテが見えた。
ピンテは生還の印だ。
彼処に戻れば何とかなる。必死に転げ落ちないように腰を落としながらズリズリ滑り歩きで登山道に復帰した。
トレッキングポールが折れているがこれから竹村新道を下るには折れていてもポールは必要だ、持っていこう。そう判断してテーピングで補修をあれこれ試みるも思うようには直せない。
困ったな、と試行錯誤しているところに、上方からポンッと神様は現われた。

その神様は、二人の若いカップルだった。
正規登山道に戻り、自力で立っているとはいえズボンのお尻部分はズタズタ、臀部や肛門辺りは痛い、出血と打撲は明らかであるが下肢の骨折はないと思われる。冷静な判断力が戻っていないので水を先ず飲んで落ち着こうとする。やはりペットボトルはザックにはなかった。滑落時に落としてしまっていた。
予備の水が1ℓ、ザックの中にあるのが救いだ。
しかしここから先のルートも自信が持てないでいた。
少し歩いて下ってみたが疑心暗鬼、また登り返し先の場所へ戻って気を落ち着かせようとした。ここだけは正規登山道だ。

(これからどうする。このまま竹村新道を下れるのか。)
登り返し真砂岳分岐に戻り裏銀座を歩いてブナ立尾根経由の安全な道を下るという選択肢は動揺した私の頭には出てこなかった。
そんな状態で他の登山者が突如現われたのだった。本当にその二人は光り輝く光背を持った神様に見えた。

「その崩落地で滑落してしまってようやくここに戻ったところです。お邪魔かも知れませんが、この先湯俣温泉までお二人の後ろをついて行かせてください。」

自分の直ぐ後を他人である登山者にピッタリ付いて歩かれることが余り気分の良くないもので有ることは承知の上でお願いしたのだった。

裂けたズボンや折れたトレッキングポールを見て、二人は私が滑落したことを直ぐに理解してくれた。

「それは大変だったですね。大丈夫ですか。でも無事にここまで戻れてよかったですね。」

私の姿を上から下まで見て瞬時に状況を理解してくれたようだ。私は水晶小屋からここまで来たのだが、二人は野口五郎小屋からここまで降りてきたようだ。
後にも先にも竹村新道をその日下山したのは我々三人だけだった模様だ。二人に出会えたことは僥倖だった。
その二人に出会わなければ滑落し負傷した心身で、湯俣温泉まで竹村新道を一人で下らねばならなかっただろう。
荒れた竹村新道の下り、一人で無事に下山できていたのかわからない。再び道迷いをしていたかも知れない。
本当に二人は助けの神様であった。
二人の後をやっとの思いで付いて歩き続けた。
南真砂岳に登り、次は湯俣岳の登り返し、そしてそこからの足場の悪い急坂もずっと二人の後を付いて歩かせて貰い、無事に晴嵐荘に到着したのはお昼12時頃だった。
滑落して5時間近く二人と一緒に歩かせて貰って下山したのだった。
無事に竹村新道を降りきり、晴嵐荘に辿り着いたときには、これで生きて帰れたと心底安堵したのだった。

ソロでの登山を常としている私なので、ルートファインディング・道迷いには人より慎重なつもりでいる。
その私が這松の影に隠れるようなピンテを見逃し、垂れ下がって地面と同一化していたとはいえ通行止めの意味の緑ロープにも気が付かずに崩落地に迷い込むとはなんたる失策。
北アルプスはどこもマーキングは確りあるという過信が有った。
いや嫋やかな南真砂岳の山容に惑わされてルートを良く確認せずに下り続けるという基本を疎かにした行動が一番の失策だ。
後程撮った写真を確認すると、ハイマツ帯へ誘うマーキングは写っていなかったが、緑のロープらしき物が数本の木とともに真っ直ぐに「行ってはいけない」という意味で置かれているのが確かに写っていた。
何と柔らかく素敵な南真砂岳の山容だろうか、と緊張感の欠片もなく写真を撮りながら下り続け、ロープにも気が付かずに真っ直ぐ下っていたのだった。

湯俣温泉、晴嵐荘前の高瀬川の清流は碧く淙々と流れていた。
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