2020年11月の朔日、漆黒の帳がまだ明け切らぬ行者環トンネル西口駐車場から大峰山登山口へ取り付いた。
足元は自分のヘッドライト、登るルートは先行者のヘッドライトの明かりを頼りに進む。
初めて登る暗闇の登山道はいつも不安でいっぱいになる。
急登を分岐点の出合(であい)に登り詰めた頃には周囲は明るくなり、ヘッドライトを収納する。辺りが見渡せると不安感は半分以下に減少だ。
出合からは修験の道、世界遺産である大峰奥駆道の一端を歩くことになる。古からの行者達に踏み固められた登山道を辿っていることが感慨深い。
進む坦道の四辺が靄に覆われて幽玄な雰囲気を醸し出す。
弥山小屋からは左手に折れ、大峰山最高地点である八経ヶ岳へ歩を進める。
一旦鞍部へ下り登り返す頃から周囲に枯木が目立ち始めた。枯木は真っ白だ。折り重なって倒れている枯木もあるが、多くの枯木は佇立したままだ。
鞍部からの登り返しは短く、程なく八経ヶ岳山頂に到着した。
八経ヶ岳山頂は、白い靄とともに林立する枯木が幽寂な雰囲気を生み、森として風の音しか聞こえない。山頂付近がかくも一面枯木の世界に変わり果てたのは台風災害が原因のようだが、鹿害も加わっているのだろう。
よく見ると針葉樹の矮木が点在しており、僅かに救いを感じる。自然の蘇生力を信じよう。
山頂は雲の中だ。期待していた重畳たる山並の景色は残念ながら今日は無理のようだ。
大きな錫杖が山頂に刺さっていて、此処が修験の山であることを再認識させる。
流れていく風が頬をなでて飛び去っていく。風を頬で受け佇むこと数分、山頂を後に弥山へ戻ることにする。
弥山小屋前のベンチで昼食、弥山小屋横のトイレを利用後、途中休憩なしで一気に下り二時間弱で登山口駐車場に辿り着いた。
そして事件は下山後、駐車場管理事務所で山バッジを購入しようとした時に起こった。
(山バッジを購入するか)山専用の財布をいつも収納しているザックの天蓋に手を入れる。
(あれっ、無いなぁ。ウェストポーチに入れたかな)
ここでハッと気が付いた。暫時呆然、血の気が引いていく。
(弥山小屋のトイレだ。トイレに財布を置き忘れた)
走馬灯のように一気に色々なことが順不同に頭の中を駆け巡る。
財布には、現金、クレカ、銀行キャッシュカード、パスモ、健康保険証、運転免許証などが入っている。帰りの新幹線の切符まで入っている。
手元にあるのはスマホだけだ。
(弥山までもう一度登って取りに戻るか。往復5時間だ。今昼の12時、この駐車場に戻るのは5時頃か。それからレンタカーで近鉄大和八木駅まで戻って6時半、そして京都駅に着くのは8時頃か、新幹線はまだある、帰れるか)
などといった考えが頭の中を駆け巡る。
(今から財布を取りに戻ってもあるとは限らないじゃないか。現金やパスモ、クレカ等金品的価値のある品物は抜き取られ空身の財布がその辺に捨てられているのが落ちだ。まずい。帰れなくなるぞ。)
新幹線とレンタカーで天川村に前夜泊し、今日は八経ヶ岳に登って下山後そのまま東京に帰る計画だった。
(なんたる失策!どうする。冷静になれ冷静になれ)
震える声で駐車場の管理人にありのままを話して弥山小屋の電話番号を尋ねた。弥山小屋の管理人に電話して、財布がまだ残っているか確認しようと考えたのだ。
「そうかそりゃ大変だ。でもここは携帯電話が通じないよ。圏外だ。」
「一寸車でひとっ走りして、電話が通じる場所まで俺が行って、弥山小屋の管理人に財布のこと聞いてあげるよ。財布は何色だ。黒色か。君の名前は。何が入っている。そうかわかった。一寸此処で待っていろ」
その管理人はすぐに軽トラを走らせ携帯電話が通じる場所へ出かけてくれた。
15分後位に戻ってきた駐車場の管理人は「弥山小屋の管理人に聞いたところ、落とし物の届けがあって、君の財布らしい。誰か下山する登山者に運んで貰うように頼んで見るそうだ。また15分位したら携帯電話が通じる場所へ行って、頼めたかどうか、もう一度俺が弥山小屋の管理人に聞いてみるから、まあここでゆっくり待っていろ」
何と涙が出るほど優しい対応ではないか。
「本当に有り難うございます」
「トイレに忘れ物があると登山者が弥山小屋に届けてくれたそうだ。良かったな」
財布だと一目見てわかるのに、そのまま届けてくれたということだ。
登山をする人に悪い人は居ないと言うがその通りだ。
暫くすると再び駐車場の管理人は軽トラを走らせ、弥山小屋の管理人に電話をかけに行ってくれた。戻ってきた管理人は「Kさんという登山者に頼めたそうだ。二時間と少し位で着くと思うよ」
「本当ですか。ありがとうございます」
私は約二時間、財布を運んでくれるというKさんの到着をじっと待ち続けた。
(今私は俎上の鯉だ。皆の善意に甘え、なすがまま待つしか無いのだ。財布の中身がどうなっていようと仕方が無いが、運んでくれた方や管理人にお礼をしなくては)
早朝は漆黒の闇に沈んでいた駐車場、待つだけと腹を括ったら周りの紅葉が見事であることに気が付いた。
(こんなに綺麗だったのか。山の紅葉はもう終わっていたが、登山口は今が盛りだな)
赤、黄、橙、様々な紅葉が青空に映えている。駐車場の紅葉を見に来る人は居ない。皆登山のために駐車場を利用するだけで、紅葉を愛でている人は居ない。
沢山の人の無償の優しさに触れ感動している今、誰に見られることもなく美しく色づいている紅葉は、私にとって今までで一番美しい無償の紅葉だった。
約二時間後、行者環トンネル西口駐車場に下山してくる登山者の中で一人、茶封筒を駐車場の管理人に手渡している人が居た。Kさんだ。
「届いたぞ」と駐車場の管理人はKさんから渡された茶封筒をそのまま私に回してくれた。
茶封筒を開けると、私の山専用財布が入っていた。ジップを開き財布の中身を確認すると、現金始め全ての品々がそのまま手つかずの状態で入っていた。
(帰ってきましたよ。私を忘れるなんて酷いじゃないですか。)
そう財布が私に言っている気がした。
登山を始めて9年、様々な登山道具を使って山に登ってきたが、全ての山を共にした道具はこの財布だけだ。暑い時も寒い時も風雨の時も雷に遭った時も、常にこの財布とだけは艱難辛苦を共にしてきた。9年間の山時間を共に過ごした最も大切な相棒ではないか。(そんな私を置き忘れるなんて酷い)帰ってきた財布にそう言われたような気がした。財布が周りの人々の善意を動かして私の元に帰ってきたのではないのか。
「有り難うございました。」
運んでくれたKさんに、お礼の気持ちですと現金を差し出すが受け取りを固辞される。「この財布を届けて貰えなかったら大変なことになっていたのです。見ず知らずの私の為に荷物になるのに運んで頂き本当に有り難うございます。お礼をさせて貰わないと困ります。」
「いや、お礼はいいよ。困ったときはお互い様だからね。」
お礼を固辞されるKさんだが私も簡単には引き下がれない。Kさんは山バッジを購入しようとしていて「それならば君がお礼として山バッジを買ってあげたらどうかね」と駐車場の管理人が提案してくれた。そんな些少のお礼では申し訳なかったが、そうさせてもらい、私が八経ヶ岳の山バッジを二個購入しKさんへお礼として一個進呈させて貰った。
駐車場の管理人もお礼を固辞され「電話番号を教えるから、暫く下って電話が通じる場所へ行ったら弥山小屋の管理人にお礼の電話をしなよ」と弥山小屋の電話番号を教えられた。
レンタカーで天川村に降り弥山小屋管理人にお礼の電話をかけた。「気をつけてお帰り」と自分のした対応が当然のような話し振りだ。
沢山の善意に助けられ事なきを得、無事に東京の自宅に戻ることが出来た。
弥山小屋トイレで拾った財布を弥山小屋に届けてくれた登山者、弥山小屋の管理人、駐車場の管理人、運んで降りてくれたKさん、彼らが当たり前だと言う善意が登山者の素晴らしさ、日本の素晴らしさなのか。
「良く帰ってきたね。ゴメンな。」二度と山専用財布は離さないと、帰ってきた財布に頬ずりをした。
そして改めて実感した。
やっぱり山屋に悪い人はいない。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2698080.html
これは一寸前の話ですが、とても心が洗われた思い出、大切な思い出です。
しかし、天国から地獄とよく言われますが、真逆の地獄から天国でした。
紅葉の時期になると、財布の到着をずっと待っていながら眺めていた駐車場の紅葉が思い出されます。
おはようございます💦
私も約20年前、家族4人で淡路島にクルマで海水浴に行った時、海水パンツのポケットにクルマのキーや自宅のキーを束ねたキーホルダーを入れてたのを忘れ、海で潜ったり、調子に乗って海中で1回転を繰り返したりしてました。海から上がりかなり経ってからポケットのキーホルダーが失くなっていることに気付き、青ざめました😱
もちろん海に戻り探そうとしましたが、見つかるわけがありません。
『どうしよう😭…このあとバスで帰っても家にも入れない💦』
ダメもとで海水浴場の管理棟に落とし物の届けはないかと管理人のオジサンに尋ねると、
【どこのメーカーのクルマや?】
『ホンダです』
【キーホルダーの形は?カギは何本付いてる?】
と立て続けに聞かれ、ワケ分からず答えると、
【これやな、ハイ!今後気をつけなさいよ。先ほど届けられました】
まだまだ世の中捨てたものじゃないと神に感謝しました🙏
(私の不注意ですが😥)
車の鍵の紛失、ゾッとしますね。
でもその通りです。日本はまだまだ捨てたものじゃない、淡路島の人たちや海水浴客にも悪い人はいないということですね。
私も山中で車の鍵を拾ったことがありますが、管理人や山小屋に届けるようにしています。でも何の施設もないと困ります。タオルや手袋類はそのまま見えるところに寄せるだけです。
先日霞沢岳登山の帰り、上高地近くでネックウォーマーを拾いましたが、やはり近くの木の枝に見えるように掛けて汚れないようにしておきました。落とし主がピストンならば気が付くでしょうから、と。
ビジターセンターかどこかに届けたほうが良かったかな、と少し反省しています。
思い出すのは利尻山登山道途中にある避難小屋で見かけた車の鍵です。誰かに拾われて小屋内に置かれていました。無事に所有者に戻ったことを祈るばかりです。
財布が無事戻ってきてよかったですね。
「山屋に悪い人はいない」、同意です。
自分も以前、とある山を登っているときに落とし物をして、(ピストンで下山する予定だったので)帰りに探せばよいかと思って山頂で休憩していましたが、後から到着した登山者が「これ、落とされませんでしたか?」とひとりひとりに聞いて回ってくださっていて、無事手元に戻りました。
また、とある雪山ではアイゼンを落としてしまいました。(当日はスノーシューで行動していたのでアイゼンは使わず、ザックに括り付けていたんですが、それがいつの間にか無くなっていました)
気が付いたのは下山後・・・。
とてもじゃないですが登り返して探す気にはなれず、諦めて帰宅したのですが、ヤマレコの質問箱に件のアイゼンを拾って落とし物でUPしてくださったユーザさんがいて、連絡して送っていただき、無事手元に戻ってきたこともあります。
最近はテントが盗まれたりする事件が起こったりして物騒になったなぁと思いますが、犯人は山屋ではないですものね。
P.S.
24cさん、文才ありますね。
まるでエッセイを読んでいるみたいでした。
本日記の内容を山雑誌の投稿者コーナーに応募してみては?
アイゼンを落としたのは怖かったでしょうが、下山後に気が付いて逆によかったですね。途中で気が付いていたら動揺したでしょうに・・・。
私が落し物をして奇跡的に戻ってきたもう一つの物に「ココヘリ本体」があります。
剱岳に別山尾根から登った際、サブザックへの装填方法が不適切だったため、前剱あたりで落とした模様で無くしてしまいました。剣山荘に戻ってから気が付きました。
ヤマレコの質問箱にはその旨投稿したのですが反応なし、しかし半月後に富山県警山岳警備隊(上市警察署)から郵送されてきました。
この時も大いに感動しました。
今回投稿した大峰山のエッセイは昨年(2021年)2月頃に雑誌「山と渓谷」読者紀行に投稿した拙文ですが、残念ながら採用されなかった経緯があります。
長文をお読みいただきありがとうございました。
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