冠婚葬祭というものが苦手である。
小さい頃から引っ込み思案の人見知りだった私は、葬式等の場や親戚の家の、知らない人や普段交わらない人達の中で、愛想笑いをしつつ、常に孤独を感じていた。
その一方で、迎合して衆に交わることは一切しなかった。それは卑屈な行為に思えたから。
しかし、小さい時にはただお菓子を食べながら座っていれば良かったのが、大きくなるにつれて、それなりに饗応や世間話の一つもしなければならない。
田舎の、やや古風な家庭に生まれ育ったので、法事や親戚の家に行く機会が多く、そこから抜け出せない状況は苦痛でしかなかった。
1週間前に母方の伯父が亡くなったとの一報を受けた際には、コロナ禍のため葬式への出席を求められないことにホッとしつつ、非常に近しい人なので、その夜は深く故人に想いを馳せる。
我が家は母方の実家との結び付きが強く、母に実家に連れていかれることも多かったが、伯父は釣りや祭、食事など、いろいろな所に連れていってくれた。性格もオープンな感じで、私のことも大いに気にかけてもらった。
脳梗塞か何かで倒れてからは、人が変わったように生気がなくなり冗談の一つも言わなくなってしまったが、だんだんと、実はこれが素だったのではないかと思えてきて、私に似ているような気がして親近感が増した。
「四苦(生老病死のこと)は自然の摂理。何ぞコロナのみ怖るゝことあらんや。」とは私が今年、親宛の年賀状に書いた一節だが、自然の摂理とわかっていても何がしかの感慨を覚えるのは、人の心というもの。
一般的に3親等は服喪の範囲外のようだが、1月最後の週末は喪に服して静かに故人を偲ぶこととした。
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