|
|
自分が死んだら、子供がきっと墓に遺骨を埋葬してくれるだろう。でも墓の場所を覚えているだろうか、とふと思う。お盆とお彼岸に墓に連れて行ったのは、ずいぶん小さい頃まで。墓掃除をする習慣も子どもに教えなかった。
無縁化する墓が増えているという。「多死・人口減少社会」だから、やむをえないこと。でも無縁化させない取り組みも紹介されている。墓(地)の永代使用をやめ期限付きにしたり、血縁者以外の方と墓地を共有したり、墓に入らないという選択をしたり。散骨は1990年頃から一般化してきた。何となく違法ではと思っていたが、特に法的な規制はない。遺骨を勝手に埋めることは遺棄になるが「撒く」ことは禁じられていない。勿論モラルの問題はあるのだが。納骨せず、遺族が家に持っていたり、圧力をかけて人工ダイヤモンド化しそれをネックレスにしたり、様々な手元供養の形もある。
小谷さんはお墓を巡る現代事情を丁寧に解説してくれる。だがおそらく「だれも墓を守れない」時代が確実にやってくると思う。そのとき、多くのタブーをもまとった日本人の死生観が変容し、そのアイデンティティの幾ばくかが永遠に失われる時がくるのだと思う。自分の番になるまでに多くの人を送ることになるだろう。日本人としてちゃんと送ってあげたいと思う。自分が死ねば好きなようにしてくれていいという気持。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「グレン・グールドは語る」グレン・グールド、ジョナサン・コット(ちくま学芸文庫)2010/10/10
ジョージ・セルに「あいつは変人だが天才だよ」と言わしめたピアニスト、グレン・グールドのインタビューで70年代にローリングストーン誌に掲載されたもの。グールドはポップスではペトラ・クラークとバーブラ・ストライザンドが好きだった。ビートルズと比較して、
「ストライザンドは…おそらくマリア・カラス以来最大の“シンギング=アクトレス”でしょう。たとえば『ヒー・タッチト・ミー』はどうでしょう。あのようなルバートたっぷりの曲(少なくともストライザンドの歌い方ではルバートに満ちていますし、和声的にも見事な構造の曲ですし、フォーレの書いたどの曲にも劣らない大変な名曲です)では、テンポを変える感覚や調性を変える感覚が楽曲全体の構想の一部となっています。統合感がうかがわれますが、それはビートルズが通用させようとしていたまさに超天真爛漫な観念の中では何の役割も果たさない種類の感覚なのです。」
ビートルズについてはさらに辛辣に、
「彼らはこう言いたかったのではないでしょうか…『最低限の要求を満たす和声構造を使って音楽を作り、実際の仕事ぶりを曖昧にしておくことで、これは新しいし、一味違う、すごいぞ、と思わせることができるんですよ』と。」
やがてスタジオ録音しかしなくなったグールドだが、初期のころにジョージ・セルと共演したことがある。奇矯なピアノ椅子の座り方について、セルとのやり取りは「ジョージ・セル事件」としてファンの間では知られているもの。その詳細も書かれていて、興味深い。グールドのファン向けの本かも。
*車でグールドの平均律クラビーアを耳にして、思い立って古本を引っぱりだして再読。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「学生時代にやらなくてもいい20のこと」朝井リョウ(文藝春秋)2012/6/25
才気煥発な朝井リョウのエッセイ。デビュー作ではキレのある怖い会話とクールな文体で見事な才能を示した若手作家だが、一転、これはコント?と思える爆笑エッセイを書いてしまう。面白い。特に「黒タイツおじさんとの遭遇」「眼科医」は秀逸。この方向で行くなら、それはそれで食っていけそう。
でもライバルは多いでしょう。30歳位になったときの小説が楽しみ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「しんがりの思想」鷲田清一(角川新書)2015/4/10
私の子ども時代、昭和30年代40年代はまだ誰もが貧しかった。貧困は普通の事で、そもそも自分は貧しいと思う場面も少なかったと思う。自分が欲しいものは他の友達も欲しいもので、抜け駆けして買って羨ましがられたり、他の子が手に入れたものを欲しがったり。親たちはどうだったのか。貧しさはお互い様の時代だから、その苦労もお互いが察し、時には手を差し伸べることもあったのだと想像する。
格差社会の現代では貧しさそれ自体が孤立化している。鷲田さんは「孤立貧」という言葉を使う。
「貧困もふくめ、わたしたち一人ひとりが、孤立したままさまざまなリスクにいわばむきだしで曝されているのが現代である。」p31
貧しささえも、<自己責任>という言葉で個人のせいに帰せられ、社会支援の手も回りにくくなっている。それがいつ自分の身に降りかかるかという想像ができなくなっている、「他人の」社会保障は削減してもいいとさえ考える、そんな時代になった。
鷲田さんが社会的発言の機会を多くしてきたのは原発事故以後である。
「わたしたちの日々の暮らしが、『原発』という制御不能なものの上に成り立ってきたという、たじろぐほかない事実をわたしたちはこのたびの大震災で思い知った。」p42
「専門家」にさえ制御不能であったことは、誰もが知った事実。
科学技術が高度化し社会制度が複雑化してくると、私たちは「専門家」におまかせ状態になる。サービスを受けるだけの側になる。もう自分の手でなおすことはできなくなっている。だが、専門性が重視される一方で、「専門」同士をつなぎあわせ、「専門」間を総合的に正当に評価する部分がなくなってしまった。「専門」が公共にどのように寄与すべきかを決定するのは、当の「専門家」ではなく、「公共」を構成し決定する「市民」であるべきで、その「市民性」を取り戻そうとするのが、鷲田さんの考え方である。
原発は「経済」の原理で動かされているが、公共の観点からすると、事故発生時のデメリットは今現在のメリットを相殺してあまりある。これが「市民」的「評価」だと思う。
時代はもう間違いなく変わりつつある。もう経済成長の時代ではない。人口減少、経済の縮小と暮らしのダウンサイジングを認めよう。責任ある市民性を取り戻し、与えられるだけの存在ではなく、押し返していこう、と鷲田さんは言う。だが果たしてできるのか、そう思ってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*今日は母の命日。4年になる。仙台のお墓に着くと雨が降り止んだ。おふくろが傘をさしかけてくれたような気がした。
墓・・・現代のお墓って、つるつる磨きすぎ、きれいすぎ立派すぎで可愛くないですよね。近頃、無縁墓となって、墓地の隅に山積みにされている、江戸時代ぐらいの苔むしたザラザラの小さい墓石が好きです。うちのお墓、あんなのに取っ替えたいです。
グールド・・・先日、ひょうたんに関する人類学的な本を読んで、ひょうたんは英語でグールドだと知りました。グレン・グールドはひょうたんグレンか!と早合点しましたが、lとrが違いました。残念。ジョージセルといえばニーベルンクの指輪の管弦楽曲集のレコードを高校生の時毎晩大音響で聞いていました。近所迷惑だったかもしれません。
専門家・・・専門家のやることに本当は任せたい。だってプロフェッショナルなんだもの。委ねられるだけのウデを持つ専門家、夢なのかな。原発は全然ダメでしたね。政治も、報道も、教育も、専門家は今疑われっぱなしです。
yoneyamaさん、まんべんなくコメントいただきありがとうございます
誰も墓を守らなくてもいいんですねえ。本当を言うと。苔むして山積みになった墓石もまた人の営みの果てにあるものなのでしょう。うちの墓は父のために母が建てたものですが、少しずつ古びています。草をとったり水洗いしたりしていますが、きっといつか立派に苔むすと思いますよ、 時間の問題です
グールドのインタビューはきままなもので、饒舌に語っていますが、時々出てくる夢想や願望が面白かった。北欧の田舎で一カ月音楽なしで暮らして、いよいよピアノが弾きたくなってパブで「1時間だけ弾かせてくれ」と頼んだお話とかね。ペトラ・クラークやストライザンドはユーチューブで再聴しました。
鷲田さんは、立派な方だと思います。政治でも報道でも教育でも立派な方はたくさんおられるのにね。相対的にその価値が軽んじられてしまう、ほとんど痴呆的な発言、暴言によって。「無意味さ」の洪水で覆いつくされてしまう。見たくないものばかりです。人間てなかなか進歩しないものですね。自分が死ぬころまでになにか一つの「決着」がありそうな気がします。「地球幼年期の終わり」みたいな決着だと面白いのに
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する