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例えば次のような問題提起がある。
「個体数が激減したカナダのセイウチ漁はイヌイットにのみ許可されている。彼らは4500年もセイウチを狩って暮らしてきた。1990年代、イヌイットはカナダ政府に次のように提案した。イヌイットに割り当てられたセイウチを殺す権利を、ハンターに売らせてほしい。殺されるセイウチの数は変わらない。ハンティング料金をもらい、ガイド役を務め、殺したセイウチの肉と皮をもらう。トロフィーハンターは大物をしとめた満足を得る。現行の割り当て頭数はそのままで、コミュニティの経済的福祉が改善される。どちらも幸せになり、不幸になる人はいない。」
サンデルの主張はこうだ:
「それでも、セイウチ殺しの市場には道徳的にどこか不快なところがある。・・・理由は二つある。
第一に、この奇妙な市場が見立つのは、社会的効用の計算において影響力をもつべきではない邪悪な欲望だ。・・・ただリストを完成させるために無力な哺乳類を殺したいという欲望は満たされる価値がない。第二に、イヌイットたちが…セイウチを殺す権利を外部の人間に売れば、そもそも彼らのコミュニティに認められた例外扱いの意味と目的が腐敗してしまう。イヌイットの暮らしに敬意を払い、昔から生活の糧としてきたセイウチ漁を尊重することと、その特権を片手間に動物を殺す現金利権へ変えてしまうことは、まったく別なのだ。」
この例は分かりやすい。ハンティングをする人以外誰しも不快で邪悪だと思うだろう。だが次のような例はどうか。
イスラエルのある保育所で、どうしても仕事で早く迎えに来られない親のために、保育士が延長で子どもの世話をしていた。ところが保育士の超過勤務のためにやむを得ず超過料金をとるようになったところ、却って遅れてくる親が増えたという。
お金が発生しなければ、それは保育士さんに申し訳ないという気持が優先し、多少の無理をしても時間内に連れ帰っていた親たちが、お金の問題なんだったらと、その道徳心公共心にふたをしてしまうという事態である。
市場主義的価値観だけがはびこっていくなら、人間の道徳心は失われてしまう。人を律していたものが、「金で解決」できるなら、ひとは楽な方に動いてしまう。人間の精神的堕落、社会制度的腐敗であるとサンデルは言うだろう。
遊園地や野球場やコンサートでの行列代行業、赤ちゃんの売買、従業員に生命保険をかけること、中国の一人っ子政策の裏にある「取引可能な出産許可証」、贈り物を現金化する行為、医者の携帯電話番号を売り出し優先予約をとれるようにするシステム…etc
市場主義的価値観がいまも私たちを(恐らくは)堕落させ続けている。「最後は金目でしょ」と言った政治家がいた。卑しさはその顔に現れるのか、それとも、彼を選良として持つ私たちの欲望を映しているのか。
*『正義』より、多分読みやすいと思う。具体例が多い。
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「火星の人」アンディ・ウィアー(ハヤカワ文庫)原題:The Martian 訳:小野田和子
巨大な砂嵐のため、火星探査が中止になる。撤収中に事故があり、一人の宇宙飛行士が行方不明に。宇宙服の生体反応は消え、死んだものとして、クルーは地球へ帰還する。だが彼は生きていた。空気も水も食料も通信手段も、何もない火星での究極のサバイバルが始まる。
物語は、主人公マークのログ記録の形で進む。1日の記録を例えばこのように:
「ログエントリー:ソル69」
ぼくはいま火星にきたばかりのよそ者ではない。もうずいぶん長いことここにいる。だが、きょうまで、ハブが見えないところにいったことはなかった。ハブが見える見えないで、なんのちがいがあるんだとお思いでしょうが、ちがうんですよ、これが。
「ログエントリー:ソル197」
フウ…。
一度でいいから、なにか予定どおりにいってくれないものだろうか。
火星は常にぼくを殺そうとたくらんでいる。
「ログエントリー:ソル482」
まあ、たぶんNASAはわかっているんだろう。地球ではニュース番組で紹介しているにちがいない。ウェブにはマーク・ワトニーの死を見まもるサイト―ww.watch-mark-watney-die.comみたいなのがあったりして。
マークはたった一人で、残された探査機の下半分とローバーと科学とテクノロジーの知識を駆使して、空気を作り、水を作り、食料を作り、通信装置を探しに行き、自分を火星から宇宙空間にうち上げてくれるものを探しに旅にでる…
火星人も神もでてこないけれど、話題の「スウイングバイ」は当たり前のように。そして若く元気なユーモアも。宇宙の旅に関心があれば、ロビンソン・クルーソーの冒険が好きなら、化学反応式がちょっと苦手でもきっとこの600ページは二日で読めると思う。
*同僚のオージーさんとちょっとこの本を話題に。意外にオタクっぽい趣味にびっくり。リドリー・スコットの映画化作品が2月に公開になる話も紹介した。「デューン/砂の惑星」を勧められる。
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「日の名残り」カズオ・イシグロ(ハヤカワepi文庫) 訳:土屋政雄
“The Remains of the Day,” Kazuo Ishiguro ( Faber and Faber Limited )
20世紀半ば、やがて没落していくある貴族の大邸宅を任されている執事スティーブンス。5日間の旅で、彼は自分の半生と、敬愛する主人ダーリントン卿の思い出を一つずつ回想していく。その旅はかつての同僚で女中頭だったミス・ケントンとの再会の旅でもあった。
完璧な執事とは何か。政財界の大物が次々出入りするこの旧家を切り盛りすること。あらゆる仕事を、入念に計画し、人を配置し、訓練し、一つ一つの行事に備える。常に目立たず、必要は全て満たし、自らは慎み深く人の目にも入らない。銀食器を徹底的に磨く。最高の執事(バトラー)になることを人生の目的とし、ひそかな誇りを持ち、部下の女性のささやかな恋心も父親の目の前での死も、彼の仕事への献身から、ひと時でも彼の目をそらすことはできない。
ダーリントン卿は、ナチスへの協力者として断罪され非業の最期を遂げる。だがスティーブンスは真実を知っている。決して表舞台にでることはないけれど彼もまた歴史の証人であった。
ある日部下のミス・ケントンが彼の部屋へやってくる。スティーブンスが珍しく読書しているのを見てその本のタイトルを知りたがる:
Then she was standing before me, and suddenly the atmosphere underwent a peculiar change – almost as though the two of us had been suddenly thrust on to some other plane of being altogether. I am afraid it is not easy to describe clearly what I mean here…..there was strange seriousness in her expression, and it struck me she seemed almost frightened.
(そして彼女が私の前に立つと、急に雰囲気が特別なものに変わったのです。まるで二人が二人だけの別の場所に押し出されたかのように。残念ながら言いたい事がうまく伝わりませんでしょうが、彼女の表情に真剣さが見え、急に思いあたったのでした。彼女は怯えているのではと)cheeze訳
“Please, Mr Stevens, let me see your book.”
She reached forward and began gently to release the volume from my grasp. I judged it best to look away while she did so, but with her person positioned so closely, this could only be achieved by my twisting my head away at a somewhat unnatural angle…..
(「どうかその本を見せてくださいな」彼女は手を伸ばし本を掴んでいた私の指を優しくほどきました。私はその間にただ顔をそむけるしかないと思ったのです。でもそんなに彼女の体が近くにあって、背けるも何も私は不自然な角度で頭だけを回すしかできなかったのです)
どうです、朴念仁でしょ?それはさておき。
穏やかに広がるイギリスの田園風景を背景に、古き良きイギリスの精神が、いまは回顧するしかないものとして、一人の執事の控え目なモノローグの中に結晶のように閉じ込められている。そして逃れることのできない「老い」が主人公をそしてイギリスという精神をゆっくりと終わらせようとしている。
圧倒的な静謐、抑制と調和の世界、そしてたった一度だけ流れる涙。美しい物語、おそらく最高レベルの。
*もし未読でしたら、心よりお勧めします、日本語でも英語でも。翻訳も見事です。地味ですが。
今回も読みたくなる書評3連発ありがとうございます。お金、火星、イシグロ。読書メーターに、読みたい本が積み上がってます。
yoneyamaさん、長文で本当にごめんさい
増えた遅刻者は、そのまま減らなかったそうです
やっぱり、ですねぇ。
読書メーター、私もちょっと使ってみようかな。
読書メータ、読んだ本の備忘に良いです。時数に限りがあるのですが、読みたい本の備忘メモにもなりますし(たまる一方ですが)、面白い本見つけることもあります。
でもチーズさんにはヤマレコの長い書評も継続願います。
yoneyamaさん、こんにちは。読書メーター、登録をするんですね。なるほど。ちょっといじってみようと思います。
「長い書評」、励ましのお言葉ありがとうございます
一冊だと多分適正な長さの日記におさまる(はずな)んです。あと最近は少し引用が長すぎですね。amazonや読書メーターの書評をたまに目にしますが、未読の本の場合、作品からの引用が少しあると本のイメージがわきますので、役に立つのになあと思ったりします。引用がないと、書き手の感想や批評の是非がわからない…なので、私はつい引用を長くしちゃうんです。ただ適切な長さというものがありますね。精進いたします
腰痛は一段落でしょうか。よかったです。また豪快な雪山記録を拝見したいものです。
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