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美しい「花」がある
「花」の美しさといふ様なものはない
随筆『当麻』の中で、世阿弥の「花」に触れた、小林らしいレトリックである。花の美しさについて幾ら言葉を重ねても虚しい。美しい花がある、それで十分だし、花を美しいと感じればいいのだと。むしろ本当に美しいものは、沈黙を強いるのだと。そう読めばいいのか。
懐かしい小林秀雄を再読したくなった。
小林秀雄「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)は、敗戦前後に書いた幾つかの随筆を集めたもので、『当麻』は梅若万三郎演ずる能の当麻を見たときの話。
「あれは一体何だったのだろうか、何と名づけたらよいのだろう、笛の音と一緒にツッツッと動き出したあの二つの真っ白な足袋は。」
舞台の衝撃の率直な告白から、思いは世阿弥の花伝書へ、そして能面の意味へと深まっていく。脆弱な現代人(当時)の表情などに関心はない。マスクと演者の肉体の動きの中に、生死の一切が含まれ、そこに美が昇華する。それに見入っている自分を、小林は観察する。
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない
鑑賞しようとすればその美から遠ざかる、まずその美に打たれよ。なかなか良い。
『徒然草』
小林は、「徒然」と「徒然わぶる」ことを混同するなとまず書き出す。吉田兼好は徒然をもてあましているのではなく、徒然そのものの中にいて、「ものぐるほしい」自分をとことん見つめている。「物が見えすぎる」兼好に、巷間よく比較される鴨長明や清少納言とは比べ物にならないほどの、批評家としての才能を見ている。その批評家は寡黙である。そして、
良き細工は少し鈍き道具を使ふ (第二二九段)
小林好みの言葉。鈍き道具、例えば兼好の寡黙と、突き放したような遠い視点もその一つだろうか。
栗だけを食べる娘のわずか四行の話(第四十段)を引用し、「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか。」と唐突にエッセイを終わらせる。読者に残された余韻と静寂はもちろん小林の意図するところで、孤高の哲学者を遇するように、その寡黙を引き継ぐように、小林は徒然草論を終える。その視線は兼好という日本的精神への深い共感に満ちている。好きな文章。
『平家物語』
読者は深く納得するだろう、見事な平家論。わずか数ページの内に、平家物語の真髄がすべて読み取られているような。
先駆けの勲功たてずば生きてあらじと誓へる心生食知るも 子規
「宇治川の合戦」佐々木四郎と梶原源太景季の出陣の段は、子規でさえ心動かされた平家の名場面。子規の歌は佐々木史郎の心情を歌ったものというより、「荒武者と駻馬の躍り上がるような動き」を描いているのであって、それこそ平家物語の本質だと見抜く。
宇治川の合戦には、「隆々たる筋肉の動きが」「太陽の光と人間と馬の汗が」見えると小林は言う。「込み上げてくるわだかまりのない哄笑が激戦の合図」「これが『平家』という大音楽の精髄である」と。
「諸行無常のひびきあり」という平家の書き出しに騙されてはいけない。平家を書かせたものは、思想でもなく厭世観でもなく、歴史を貫く叙事詩人の魂だ。無常思想など時代のはかない意匠だ。そして「真実な回想とはどういうものかを教えている。」と結ぶ。平家の幾つかの場面を読めば、武者たちと馬と戦場の凄まじいディテールが蘇る。男たちの涙とかなしみが、その塩辛い味までもが蘇る。それが「真実の回想」であり、そのような力を持った作品こそ本物なのだと小林は言っているのだろう。名作である。
『実朝』
若くして暗殺された実朝の悲劇は、歌人としての才能とともに、永遠に失われたものを想う哀しみである。吉本隆明も太宰治も実朝をめぐる作品を書いた。夭折の歌人には言葉を引き寄せるものがあるのだろう。
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
大きな歌であり、基調は悲しみの海の青。実朝の数奇な運命を描きながら、実朝が生きた時代と彼の位置の難しさについて丁寧に辿りつつ、時代を越えて蘇ってくる一人の青年の「無垢」に心を寄せる。
「ここにあるわが国語の美しい持続というものに驚嘆するならば、伝統とは現に目の前に見える形ある物であり、遥かに想い見る何かではない事を信じよう」
「わが国語」という言葉に少し力んだ若い小林の姿が見える。
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こうした一連の古典論を読んでいくと、晦渋な『無常という事』の意味がすっと腑に落ちる。歴史には動じない美しい形がある、それは歴史の魂というべきもの。記憶するのでなく、その魂を感じよと言っているのではないか。だがこの作品は、少し観念が空回りしているような印象。
「現代人には…無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」
という結びは、今読むとややレトリックに走りすぎたかな。
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ところで、『無常という事』と『モオツァルト』には、同じようなモチーフがあって、それは若き日の小林秀雄が、比叡山を歩いていた時に『一言芳談抄』の「なま女房」の話を思い出す場面、そして大阪道頓堀をうろついていた時にモオツアルトの「ト短調シンフォニー」のテーマが頭の中に鳴った場面。
「僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬のようにうろついていたのだろう」
ちょっと好き嫌いがありそうな若く甘い文体。若い頃の自分は確かここが好きだった。
その『モオツァルト』には一体何人の“有名人”が登場したことか。ゲーテ、ベートーベン、トルストイ、メンデルスゾーン、ニーチェ、ワグナー、スタンダール。モオツアルトに驚愕し、その才能を賞賛し、当惑し、語りだす巨匠たちの一言ずつが、モオツアルトの天才の傍証となっていくように構成されているのだが、一方で彼の饒舌と偽悪趣味と奇矯な行動と、あまたの能天気な手紙はその音楽世界と激しく乖離していることも周知の事実。名画「アマデウス」のテーマでもあり、我々のよく知るところでもある。裸で無垢で孤独な魂と、凡庸で俗悪な馬鹿者の共存。だが天才は転調する。唐突に見えていかにも自然な転調(小林)。これだけの解釈で私にも十分に思えた。
k516ト短調の弦楽五重奏曲について、アンリ・ゲオンの言葉を受けて、
モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない
と小林は表現する。モオツァルトはわずかしか短調の曲を書いていない。40番シンフォニーとk516の二つの短調はきっと小林の好みなのだろう。「疾走するかなしみ」なるほどそうなのかもしれない。
ところで自分はモーツアルトが好きだったっけと、ふと思った。
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この時期、小林が考えていたのは、日本とは、日本人とはという問いだったと思う。歴史の中に永遠に失われてしまったように思えた日本人の詩の魂について。それはまた敗戦前後の2年間、小林秀雄が完全に文壇から離れ沈黙していたことと、無関係ではあるまい。戦争という巨大な現実が目の前にあったとき、人はどう動くのか動かないのか、何を考えるのか考えないのか。
ときどき古典を読みたくなる(小林も十分古典)のは、確かなものを確認しそのそばにいたいという気持ち、いや単に自分が年をとったからか…それにしても小林秀雄は若かった。
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平川克美『路地裏の資本主義』(角川SSC新書)
プロテスタントの勤勉で倹約的生活から生まれたという資本主義。自由と平等な競争をもとにした理想的経済システムだったはずが、いつの間にか暴力と簒奪と格差拡大の、国家以上の強圧的存在になってしまった。
もはや先進国内での成長は過飽和状態だから、資源と労働力と巨大な市場を求めて海外へ。それがグローバリズムであり、もちろんTPPの本質でもある。さらに、海外での収奪も底が見えてきたとき、今度は国内での収奪へと牙を向く。「残業代ゼロ」「派遣」「ブラック」など、格差がいよいよ広がってきている。
そもそも日本国民は、「もっともっと成長を」と望んでいるだろうか。それとも「今の平和と安定が続いてくれれば良い」と考えるだろうか。人口減少時代とは消費減少の時代であり、「経済成長」や「成長戦略」ではなく「定常経済」の維持をまず考えるのが自然なはず。それは言ってみれば撤退戦になるのだが、おそらくは世界で初めてとなる撤退戦を、今後の世界のモデルとなれるように戦えばいい、と素直に考える。
「普通の人」平川さんが、経済と株式会社と資本主義のことを半径1kmの商店街と路地裏で考えてみたという本。穏やかで理知的で、読みやすくマイルドな経済論である。ちょっと感覚が古いところもまたいい味。平川さんがやっておられる喫茶店に足を運んでみたい。
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またもや途方もなく長い読書日記になってしまった。
小林秀雄、懐かしいと思われた方もいらっしゃるのでは。
古典の批評の書評の感想になりますね。
小林秀雄は高校生以来ゴブサタです。「意味不明だけど苦しんでも読んで理解しなくては」という読書、若い時しかしていませんでした。今読んだら全然違うのだろうなあ。平家物語やモーツアルトの魅力もようやく分かって大人になったのだし。
平川さんは、喫茶店の人だったのですか。「路地裏の」は「街場の」に対しての謙虚さのようなものかな。
日本軍は「国としては」撤退戦が大の苦手でしたね。国や政府を期待しないこと、一人一人が撤退戦の準備をすることからが出発点と思います。
yoneyamaさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
若き日の小林秀雄、私も同様でした。小林は「日本的精神」について、書いているので(多分)、そういうものと一番遠い高校生にわかるわけがない、と今納得しています。むしろ当時は平家や徒然草の魅力を教わりました、勿論恩師の国語の先生にですよ
平川さん、メインは著述業と立教の特任教授で、喫茶店もなさっているみたい。裏表紙がカウンターの奥の写真でなかなかいいですね。ひっそりと儲け度外視で喫茶店マスターもいいですが、著述業じゃない私は赤字は出せないので、無理そうです
「反知性」のコントのような現実、見たくないもの、聞きたくない言葉が一気に噴き出してきていて、本当に老人世代である自分の無力を感じています。
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