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白河の関跡は小高い丘のようなところにありました。明らかに土塁や空堀のような地形もあり、関所というよりも中世城郭を思わせるものでした。白河の関は元来が古代の関所ですから、奉行様が旅人の通行手形の確認をするような近世の関所よりも、異民族(蝦夷)の侵入を警戒するような城塞に近い性格の施設だったのかも知れません。あるいは土塁が構築されたのは中世から戦国期にかけての可能性もありますが……(関ヶ原の合戦の際、会津の上杉軍の南下を警戒して、東軍はこの辺りにも戦力を配置していました。また戊辰戦争の際にも、白河周辺は戦場となっています)。
土塁の上の通路を進んで行くと、平坦地に神社がありました。建物らしい建物はこれくらいで、箱根の関所のような立派に復元された建物を期待すると肩透かしを食うことでしょう。社殿の近くには歌碑が立っており、白河関にまつわる和歌を詠んだ三人の歌人、平兼盛、能因法師、梶原景季の唄が刻まれていますが、前者二人は実際に白河関を訪れてはいません。白河関は歌枕の地としても広く世に知られてはいましたが、歌枕とは和歌のイメージの源泉となる題材のことであり、詠み手が実際に歌枕の地に行ったことがあるのかとか、その場所で詠んだのかとかは問題とされなかったからです。ですが最後の一人、梶原景季(景時の息子です)の和歌、「秋風に 草木の露を払わせて 君が越れば 関守も無し」は奥州合戦(1189年)の際に源頼朝に命じられ、実際に現地で詠んだ歌とされています。律令体制の崩壊した平安時代の後期には、関所の役人の姿も既になかったのでしょう。
他にこの地を踏んだ有名人と言えば『奥の細道』であまりにも有名な江戸時代前期の俳人 松尾芭蕉がいますが、彼は「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と、この地に至ってようやく旅する気持ちが定まってきたとの感慨の言葉を残すばかりで、肝心の句は詠んでいません。
神社の参道を下っていくと、立派な石造りの柵に囲まれた「古関蹟碑」があります。これは江戸時代後期、時の白河藩主 松平定信が建立したもので、当時既に位置が定かではなかった白河の関を、文献調査などから「この地に間違いあるまい」と言うお墨付きを与えたものになります。勉学好きらしい老中定信の性格が伝わってくるエピソードですが、昭和に入ってからこの地で発掘調査が行われ、縄文時代から奈良・平安、中世に至るまでの時代の遺構が存在する複合遺跡であることが判明しました。現代に伝わる奥州三古関(勿来関・白河関・鼠ヶ関)のうち、考古学的検証が得られているのは白河のみです。
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