![]() |
本作はいわゆるTVアニメの再編集映画なのですが、場面転換の捕捉で追加されたと思しきナレーションが2、3あるだけで、シーンの繋がりに不自然なところはありません。新規作画による追加カットみたいなものもなさそうです。1年間のTVアニメを2時間弱の総集編映画にするに際して、序盤の数話、全体のプロローグ部分に搾って構成した点が見事という他ありません。単なるダイジェスト映画にはせず、1本のまとまった劇映画として成立させるのには、この部分で区切るしかないといった思惑があったのでしょうか。本当に思いきったことをしたものです。まさかダイアナもギルバート(有名な作品なのでそういうキャラがいることだけは知っています)も登場させないとは!
話の筋としては19世後半のカナダのとある片田舎「働き手として男の子の里子が欲しかったマシューとマリラという壮年の兄妹の元に、手違いでよこされてしまった孤児院育ちの少女アン・シャーリーが、先の希望を反故にした兄妹によって受け入れられるまで」の数日間を描いた物語です。現代のTVアニメだったら1〜2話程度で処理されてしまいそうなエピソードです。そこには大仰な「キャラクターの成長」なんてものはありません。あるものといえば、異なる人格を有した人間同士の交流と、それによって生じた心境の変化だけですが、それを懇切丁寧に描いていくことで、観客は得も言われぬ感動を与えられてしまうのです。
「ここがすごい!」みたいな点をえんえん書き連ねても仕方ないので、ひとつ好きなシーンを上げることにしましょう。映画の中盤、この手違いが起こったわけを訊ねるべく、マリラがアンを連れて馬車を出し、養子の仲介を頼んだ知人の元へ向うシーンがあります。この時点でマリラはアンを孤児院に送り返す気満々なのですが、道中で出会った別の隣人とマリラとの立ち話を耳にして、居たたまれなくなったアンが馬車を飛び出して脱走(?)することで、マリラがちょっとアンへの態度を軟化させることになります。その後、アンから彼女の生い立ちの話を聴いたマリラは「前にいた二軒の家では良くして貰えたのかい?」という問いかけをします。それに対してアンは「子守りやらなんやらで大変だったが、二人とも自分に対して良くしてくれるつもりはあったと思う」という趣旨の答えを返します。僕はこの言葉を聴いた時、アンはなんて誠実な子なんだろうかと思いました。さんざんこき使われたと前の里親を悪し様にいうでもなく、心象を良くするために「良くして貰えた」とウソをつくでもない。子供なりに考え、言葉を選んで、精一杯相手のことを慮った受け答えをしている。この後、知人の家で、マリラがアンを受け入れることになる決定的なシーンがあるのですが、きっかけとして重要なのは、その前段に当たるこのシーンなんじゃないかと思います。このやり取りが僕の心にガツンと響いたのは、そこに至るまでの二人の交流(なんなら衝突と言い換えてもいいかもしれません)の描写をじっくり自然に積み上げて来たからに他ならないでしょう。初対面の相手の心の深い部分を知り得るようになるためには、それ相応の時間とやり取りが必要でしょうから……。
アニメーション的にも見所が多い作品です。宮崎駿が場面設定・画面構成としてクレジットされているだけあって、先に紹介したアンが馬車から脱走したシーンの直後、手前にふてくされて座り込むアンを映し、遠景にマリラの馬車が小さく見えるように配置したカットなど、まるで一幅の絵画のような美しさです。というわけで、作品の存在を知っていながら何十年も視聴しないでいた自分が言うのもなんですが、多くの人に劇場で鑑賞していただきたい作品です。『赤毛のアン』のこと全然知らなくても大丈夫。ちゃんとそういう人に向けた作りになってますから。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する