そこで「日本アルプス登攀日記」を借りました。この本は1894年から1914年までのウエストン自筆のメモを訳した物です。読んでいて非常に興味深く面白かった。フィールドノートだけあって、本音の部分が垣間見え、「日本アルプスの登山と探検 Walter Weston」とはかなり趣が違ってました。
上条嘉門次(上高地に詳しい猟師)や根本清蔵をいかに信頼し、深い友情で結ばれていたかが分ります。人夫や強力のなかには、怠け者でいい加減な者もいたようです。立山での平蔵等の強力・人夫については良い印象はないようです。湯治客の深夜まで続くどんちゃん騒ぎと蚤・蚊には辟易したようです。私自身は温泉旅館やホテルなどには泊まらないので、この悪習がいまも続いてるかどうかは知りません。標高の高い山小屋(山小屋風の建物、避難小屋)でも人夫や学生等の集団登山者の大騒ぎには困ったそうです。今は、山小屋・避難小屋はそんなこともなく、早ければ19時、遅くても21時には静かですよね。
2つの気圧計で頻繁に気圧(高度)をはかり、気温(華氏)を測っていたようです。この点は私に似てます。私は最近、風速計も持ち歩いてます。
当時歩いたルートは特に興味深く、当然現在のルートと違うところも多々あるし、今に比べたら登山道といえど、沢登りあり藪漕ぎありでした。1894年頃に比べ1914年頃は登山道整備もかなり進んだ箇所もあったようです。
1914年、有明から燕岳、そして大天井岳の下りは、右岸に赤沢岳からの沢云々とあったので、二ノ俣谷を下ったようです。槍沢と合流するまで、悪路だったとのこと。想像するに、たまに下る人はいても道など無かった感じです。また、外国人としての初登頂(初ルート)した山もいくつかあったようです(南稜からの奥穂、妙義山のピーク等)。東鎌から槍のルートも初登です(ウエストン、嘉門次、清蔵もかな)。
ウエストンは親日家としても知られ、英国内を回って30年以上「日本と日本人」などについての講演活動をしていたそうです。
私などが見ても殆ど読めない、悪筆(らしい)のメモを訳された三井嘉雄氏には感謝しかないですね。メモなので他人が読むことを想定して書いてないから、大変な作業だったと思います。
画像1:「日本アルプス登攀日記」 W.ウエストン 三井嘉雄 訳
画像2:念願の北鎌尾根からソロで槍に登頂。山頂のスナップ。5月。
画像3:槍ヶ岳モルゲン。槍ヶ岳山荘付近にて10月末。
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