著者の杉本光作氏(1907-1980)は、谷川岳の開拓期から町の山岳会(社会人)として活動してきた東京登歩渓流(とぼける)会の代表などもつとめられた方で、本書はその山人生を振り返ったもの。33の章から構成されていますが、山行記録的なものの多くは戦前のもので、上越線が開通して間もないころの様子が分かる点で貴重と思います。
山の記録的なもののほかにも、山仲間について語ったもの、装備(ハーケンを使うことの是非や登山靴か草鞋かの議論など)の話題、そして、遭難と捜索に関係したものもいくつか納められていて、その中にはかの「風雪のビバーク」で有名な松濤氏と有元氏の北鎌尾根遭難の捜索の様子や遺書を発見した時の様子なども記載されています。「一ノ倉の二重遭難」という章では、伯爵の血統である平田恭助氏(一ノ倉滝沢の初登攀者)の遭難という特殊事情の中での捜索の一部始終が紹介されています。
また、山仲間についての記述では、中村治夫氏、川上晃良氏、山口清秀氏などとの交流が振り返られています。戦争という時代背景(杉本氏自身も満州、後に南方戦線へと出征している)の中での中村治夫氏(山を止めて満州に渡っていた)との生涯を通じての友情については、戦争を知らない私には想像に余りあるところがありました。
全体を通じていえることは、文体も平素で飾るところがなく、全くもって偉ぶらず、それでいて具体的な責任感溢れる実績がさらっと綴られているところがすごいと感じました。後進の育成の面からも、この時代の登山界に大きな影響を与えた方なのではないでしょうか?
nomoshinさん私の若い時のように、すごい勢いで読んでいますね、
しかも先人たちの本を今時これほど読んでいるのには感心します、
杉本光作氏の本は直接には読んではいませんが、その足跡などは他の本などで読んで知っている程度です、
初めは登歩渓流会を(とほけいりゅうかい)と読んでいましたが、後で(とぼけるかい)だと知りました、
氏の功績はお書きになった通り戦前の町の山岳会としての活躍は目を見張るものがありますね、
この時期の山口清秀氏の弟の幸吉氏が4月の単独での第4ルンゼで帰らぬ人になったと記録に残っています、
そんな登歩渓流会にとって目の上のタンコブが滝沢下部の突破は長年の懸案でしたが、
足かけ7年の執念が破られました、全く無名の山行記録など無い、
しかも谷川岳が初めての平田恭助氏に登られたショックで直ぐに第2登を敢行して失敗したことなどが載っている本があります、
中央新書の羽生卓造氏著書の「谷川岳 生と死の条件」です、この本は谷川岳の登攀の歴史を書いてある文庫本です、
この著書の最後の方に書かれている「山の鎮」の広場にある墓碑には行った時には必ずよっていますし、
そこに刻まれている名前にはかっての名クライマーなどの名前などがあります、
お読みになってご存知の名前がありますよ、最近は本屋にはご無沙汰なものですから、よく探してこられると思っていますよ、
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