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本書は、大正末期から昭和初期に書かれた随筆や紀行をまとめたものですので、時代背景的には登山がスポーツとして大衆のものになりつつある頃の話です。全部で50編近い話で構成されています。最後の方の一連の「沢・谷・川」シリーズは、「谷」と「沢」(または「谿」)の違いを地名を交えて考証したり、日本各地の渓谷の特徴を紹介したり、本書のタイトル「泉を聴く」の面目躍如の部分です。また、「滝谷をうかがう」は、藤木九三氏(および時刻は遅れますが同日に早大チーム)が滝谷の初遡行を達成した3日ほど後に、悪天候の中で滝谷につっこんでいった武勇伝であり、落石と激流の中、撤退するシーンはハラハラどきどきです。
一方、全体としては玉石混交的なところもありまして、「手裏剣」「松野種子」などは、ちょっと人に読ませるようなレベルではないのかな、などと不遜にも感じました。
その中で、私が個人的に一番印象に残ったのは「不用意な言葉」という一編です。タイトルからは想像しにくい内容なのですが、要は、山の登り方についての意見を述べているものです。「日本の有名な山という山、谷という谷を知り尽くすことによって、自称山岳家になり済まし、誇りを感じようとする人びとがある」から始まって、「いくら多くの山を登ったとて、無暗に歩いていては何にもなりやしない。深まりゆく何物もない。内在的心がしかと出来ておらぬ上は、いくら沢山な山谷を跋渉しても駄目だ。」「登山とは山に登ることには相違ないが、量的に論じては行き詰ってしまう。質的に深まりいったものでなければならぬ。」と続きます。実は、本書を最後まで読んでみると、西岡氏自身、日本の主要なる山岳地方をすべて歩いている様子がありますので、この意見は実は自己反省的なものに立脚しているのではないかと、推察されるのです。沢山の山に登ったあとにやっと気づくというのが人の浅はかさでもあり、可愛らしさでもあり、人間らしさなのかな、と思ってみたりもしました。もちろん早い段階で気づいて、より有益な山歩き人生にシフトした先人も沢山いるとは思いますが、すくなくとも凡人の私は自分自身でそう感じている次第です。
う〜ん、含蓄あるコトバですね。山に登れば登るほど、なんだかむなしさが積もっていくことがあるのもそういうことだったのかなと思う気持ちもあります。登って登って初めてわかる気持ちなんでしょうかね。
junjapaさん、コメントありがとうございます。
やっぱり自分が一番良く分かっているはずですよね。胸に手を当ててじっくり振り返ってみると、心に残る良い山行がどれで、なんとなくアワアワ(アセアセ?)と山頂に登って写真だけ撮って帰って来た山行と…
この山レコをやりはじめて、皆さんの素晴らしいレコに出会ったりすると、自分も良い山行を1つでも増やして行きたいと本当に思うようになりました。
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