まだ夜が明けきらない鉾立にある展望所からは、紅に染まった空の下、稲倉岳の黒い陰影が浮かんでいるのが見える。
少しすると、夜明けの光は徐々に強さを増し、稲倉岳山頂から御浜小屋方面へと繋がる稜線にはハッキリとした深いU字型の窪みが見てとれる。
よく見ると、窪みへの南側からの落ち込みは、途中からスッパリと垂直に切れ落ちており、唖然とする。
果たして持参したザイルの長さであの垂直の壁を降下できるのだろうか…。
一抹の不安を覚えつつ、先ずは一路御浜小屋を目指すべく展望所を後にし、まだ薄暗い山道へと足を踏み入れる。
味気ないコンクリートで作られた山道をゆっくりとしたペースで歩き続けると、やがて木道へと変わり、更に多くの登山者により踏み固めれ、石が露出した山道へと変わる。
途中、賽の河原にて休憩中の先行者と挨拶を交わし、その先の登り坂に差し掛かると、後ろから来た一人の登山者に追い抜かれた。
随分速いペースで先を行くその登山者は、数十メートル登っては、息を切らして立ち止まり、また少し登っては、立ち止まり…を繰り返している…どうやら登頂一番乗りを目指しているらしいその姿に、少し前の自分の姿を思いだし、微笑ましく思え、つい見つめてしまう。
筋力がついたからなのだろうか…今では、重心を余りずらさず腕組をしながらゆっくりと歩くこのスタイルが、息が上がらず体力の消耗も少なく思え、気に入っている。
出発から約一時間半、暫く歩き続けると御浜小屋に到着した。
御浜小屋の前では、前日に宿泊したらしい登山者らが穏やかな朝の景色を楽しんでおり、その脇を挨拶を交わしつつ通り抜け、少し先にある高台にて眼下に広がる湿原と地形図を照らし合わせるが、今日の目的とする場所へと続く登山道らしきものは全く見当たらない。
しかし、それは想定済みの事、早速期待と緊張を胸に薄手の雨合羽の上下を着込み、ややぬかるむ湿原へと足を踏み入れ、どんどん下って行くと、行く手には残雪が覆う小さな沢が現れるが、踏み抜きを気にしながら難なく渡り、更に少し登り返してからいよいよ笹藪へと突入する。
始めは腰の高さ程だった笹藪は、徐々に背丈を増し、進むほどに体で感じる密藪の抵抗力は増してくるが、躊躇せず進み続けると、鳥海山山頂方向から連なるあのハッキリとした外輪山の輪形が確認でき、今はその稜線の上に自分が立っていることに気づく。
そして稜線の北側の眼下には、新緑に覆われた美しい平原が広がっており、そこを流れる鳥越川からは、ザーッという雪融け水の音が聞こえている。
数ヶ月前、中島台レクリエーションの森より、真っ白に雪化粧をした外輪山を眺めながら鳥海山山頂を目指し、汗水流して歩き続けた光景が蘇る…。
あの頃は、稲倉岳という存在は頭の中には無く、ほとんど印象に残っていないことが悔やまれる。
少しの間、思い出に浸りつつ見慣れない美しい景色につい心を奪われ佇んでいると、不意にウグイスの声が聞こえてきた…。
それをきっかけに気を取り直し、更に藪を漕ぎつつ北へと向かうが、いよいよ笹藪は人の背丈程になると共に灌木が混じり始め、直進することが非常に困難となる中、尚稜線の北側へと進み続けると、いよいよ展望所より見えたU字型の窪みへの始まりとなる急斜面へと到達し、目の前には岩肌を露にして空に突き上げるかのごとくそびえるジャンダルムが姿を現す。
その異質な姿に感動を覚えつつ藪に覆われた斜面を更に下ると、足下はズルズルと谷底へと滑り始め、ザイルでの確保が必要な事を体で感じることができる。
灌木に掴まりながら体を支えつつ対面するジャンダルムの高さを目測で確認するが、どうやら持参したザイルの長さでは、やはり足りないようだ。
今回は、登頂への下見を兼ねて行けるようであれば、山頂を目指そうと考えていたが、このまま深い谷底に降下を続けても、肝心のザイルの長さが足りず、空中にぶら下がった後にそこから登り返す事を思うと、やはり今回はここまでとする事にした。
ジャンダルムを目の前にして残念には思うが、同行者と道具や知識、技術を分けあえない道なき道を進む単独行では、引き際の判断を誤ると、いとも簡単に取り返しのつかない状況に至ることは、今までの経験から強く感じるところであり、また、今その場にいる自分の五感がそう告げているのだから、それに従おうと思い、後ろ髪を引かれる思いで猛烈な藪が広がる斜面を登り返し、その場を後にした。
暫く稜線上を登り返すと、傾斜は緩くなり、ニッコウキスゲの他に色とりどりの花たちが咲き乱れるお花畑へと辿り着いた。
その脇には、テン場のような一坪程の乾いた土が露出しており、足元には、外輪山稜線の急な斜面があり、鳥海山山頂へと繋がる広大な平原と稲倉岳が遮る物も無くよく見える。
更にそこには、「ここに座れ」と言わんばかりの石が存在しており、正に少し早いお昼にはうってつけの場所だ。
突然の稲倉岳からのサプライズに嬉しくなり、早速備え付けの石に腰掛け、新緑が広がる360°の美しい景色を堪能しつつ、大好きなおむすびを口に頬張る…。
数ヶ月後、お花畑があった場所に再度訪れたが、既にそこにはお花畑は無く、深い笹藪が広がっていた。
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