早朝、何処か懐かしさを感じるくねくねとした道が続く静かな横岡集落を通り抜け、奈曽川沿いに続く林道を進むと、やがて路面は落ち葉で覆われた悪路へと変わり 、ハンドル操作に気を払いつつ、デコボコ道にゆっくりとしたスピードで車を走らせる。
鉄製のゲートを通り過ぎ、更に暫く進むと、左手には視界を覆うかの様な巨大な堰堤が現れ、林道の終点となった堰堤前にある広大な空き地の端に車を停車させた。
時刻は、6時55分、この深い谷間には、未だ陽の光は届かず、薄暗い周辺の景色には、うっすらとした靄がかかっている。
車から降り、朝のひんやりとした空気を浴びながら、持参した朝食代わりのパンを噛り、目の前に立ち塞がる巨大な堰堤を越える為のルートを思案するが、タラップや巻き道らしいものは見当たらず、この場所からでは堰堤から先の状況も全く確認することが出来ない。
地形図を確認すると、どうやらこの先にもまだ8箇所程の大きな堰堤が立ち塞がっているようだ。
7時25分、沢装備に身を固め、先ずは左岸の藪の中を進み、三段構えとなっている堰堤の二段目へと上がり、更に堰堤の上を右岸へと渡り、三段目へと上がった。
堰堤の先には、風も無く穏やかな奈曽川の風景が広がっており、沢床は数十センチ程の角の取れた石で埋め尽くされている。
そして、既に落葉を終えた両岸の雑木林の端からは、高さ数百メートルと思われる切り立った崖が一気に立ち上がり、うっすらとした靄が覆う沢の上流へと連なっている。
これが奈曽渓谷か…頭上へと覆い被さる様な両岸の稜線の連なりを眺めながら、スケールの大きさに圧倒されつつ、右から左へと視線をゆっくりと一周させた。
さて、この先にはどんな景色が待っているのだろうか…期待と不安が入り交じる中、奈曽川の遡行を開始した。
鳥海山の山頂付近は既に雪に覆われ、雪山シーズン到来となった11月の今日、奈曽川の水は、身震いする程の冷たさだ。
先ずは、沢の岸にある雑木林の中を進んでみるが、木々の枝や葡萄のツル、頭上の崖から落下した大きな岩に行く手を遮られ、思いの外困難な歩行を強いられる為、仕方なく冷たい沢の中を歩くこととしたが、沢床を埋め尽くすヌルヌルとした石は、靴底がラバー製の沢靴との相性が悪く、非常に滑りやすく一歩進む度にバランスを崩される為、水面上の乾いた石を伝いながら進んだ。
少しすると、また大きな堰堤が現れ、直登は不可能な為、左岸の急な草付きから巻き上がり、更に遡行を続ける。
次から次へと行く手を阻む堰堤を幾つ越えただろうか…気が付くと、遠く靄の先に見える岩壁には、二本の大きな滝らしきものが見える。
もしや雪解けの季節に現れると云われる白糸の滝だろうか…。
真相を確かめるべく、遠くに見える岩壁を伝う二本の滝を目指して遡行を続ける。
進むほどに沢幅は狭まり、辺りを埋め尽くす岩も大きさを増し、沢の流れもまた音をたてて速さを増して行く。
8時55分、正面に見える滝へと続く出合へと到着。
本流から外れ、ゴツゴツとした大きな岩が覆い尽くすガレ場の先に見える滝を目指し、四肢を駆使してよじ登って行く。
9時23分、いよいよ二つの滝が合流する崖下の大きな窪みへと到着した。
頭上にぐるりと覆い被さるややハングした岩壁の高さは、20メートル程だろうか。
左手の滝からは、岩壁の上からザーッと音をたてて水が降り注いでいるが、右手からは、残念ながら水が滴る程度の水量しかない。
地形図で確認すると、どうやら右手の水の滴りが白糸の滝からの流れであり、左手の水量のある滝は、鉾立の展望台から見える白糸の滝のやや左手の標高1355メートルピークの北西側の斜面に沿って流れ落ちる滝と確認した。
規模ではこちらの滝の方が大きいと思われ、ネット上では、この滝を誤解して白糸の滝と紹介されていることが少なくない。
記念撮影を済ませた後は、土砂が堆積する斜面をよじ登り、滝の直下へと進んだ。
ザーッ!という凄まじい音と共に、冷たい水がヘルメットを叩き、全身ずぶ濡れとなったが、奈曽渓谷の大自然と一体となった気分は、実に爽快だ!
冷たいシャワーで体を清めた後は、滝の正面の岩に腰掛け、おにぎりと水筒の熱いお茶で一息入れる事とした。
振り向けば、切り立った両岸に挟まれた谷間の遥か遠くには、沢山の白い風力発電の風車が回っているのが小さく見える。
素晴らしい景色と旨い食事に、五感全てが満たされる一時を楽しんだ後は、少し名残惜しいが、本流へと戻り、奈曽川の遡行を再開した。
沢の流れは、一段と勢いを増し、目の前には次から次へと巨石が現れ、四肢を駆使しなから次の目的地である御滝を目指す。
見上げれば、高さ約300メートルと云われる崖が鋭く両岸に立ち上がり、この谷のスケールの大きさを改めて実感する。
数年前、鉾立の展望台から眺めた蟻の戸渡へと続く深い谷間が続く奈曽渓谷の絶景。
いつの日かこの絶景の中を歩いてみたい…その思いが現実となり、今自分はその中を一人歩いているのだ。
感慨に耽りつつ険しさを増す谷間の中を登り続ける。
10時36分、標高約960メートル付近より沢は枯れ、暫く巨石を伝いながら遡行を続け、現在地を確認すると、御滝を少し通りすぎている事に気付き、慌てて辺りを見渡すが、辺りには地形図に記されている様な沢の出合は確認できず、谷がある筈の周辺は藪に覆われ、滝どころか沢の様な地形も確認できない。
不思議に思いながらも仕方なく先へと進むこととしたが、この山行の帰り際、林道にて車ですれ違った地元の方の話しでは、雪解けの時期にしか現れない滝なのだとか…。
11時5分、標高約1065メートルより再び沢の流れが始まり、正面には蟻の戸渡の深い切れ込みが見える。
そして、11時16分、標高約1150メートル。
右手には御浜、正面には蟻の戸渡、左手には稲倉岳と三方を険しい崖に囲まれた広いガレ場へと到着した。
辺りには風も無く、サラサラと流れる沢の音だけが聞こえており、振り向けば、遥か遠くの稜線上には、鉾立山荘の三角屋根が小さく見える。
晴れ渡る水色の空の下、初めて見るこの美しい渓谷の姿に改めて感動し、飽きることの無いこの目の前に広がる絶景を堪能するべく周囲を見渡すと、右手のやや奥まったところには、高さ50メートル以上あるだろうか…天を突く矛先の様な鋭い立ち上がりを見せる岩尾根があり、その特異な形状を見せる岩尾根の両脇には、二本の滝が流れているのが見える。
ここに来て滝に出逢えるとは思わなかったが、間近で見てみたいという思いから、右手のガレ場を登り詰め、先ずは岩尾根の右手から流れ落ちる滝の直下へと向かった。
最下部からは、上の状況はよく見えないが、最下段だけでも20メートル程あるだろうか、何段にも連なりながら稜線上から流れ落ちる様は、周囲の景色と共になかなか見応えのある滝だ。
そして今度は、岩尾根の左手から流れ落ちる滝の直下へと向かった。
数百メートル程あると思われる崖の上から数段に渡ってサラサラと流れ落ちる滝の最下段には、長い年月を経て深く洗掘された高さ約20メートルの岩壁を流れ落ちる滝があり、その下には直径2メートル程の小さいながらも深い釜が形成されている。
そしてその釜の中には、上部から落下してきたらしい岩が釜の縁に引っ掛かり、チョックストーンとなって釜の中に浮かんでいる。
チョックストーンの陰に落下した滝の流れは、釜の中に穏やかに溜まり、その水は透明度が高い美しい碧色となってこの滝の周辺に神秘的な光景を醸し出している。
険しい渓谷の岩壁に覆われた景色の中に、人知れず存在するこの神秘的な光景は、正にこの険しい奈曽渓谷に輝く秘宝のようだ。
宝箱を見つけたかのような驚きと共に感動を覚え、碧い釜の中へとサラサラと流れ落ちる滝の姿を暫し眺め、奈曽渓谷の美しい景色と共に心に刻んだ。
思いもしなかった奈曽渓谷の秘宝との出逢いは、今年度の無雪期登山の最後を飾る思い出深い山行となり、生涯忘れることは無いだろう。
さて、紅葉の時期も終わり、冬支度を終えた北東北の山々もそろそろ本格的な冬の到来を待つばかりとなったが、今季の冬は何処を目指そうか…白銀の世界に思いを巡らす今日この頃である。
この日記は、岳人2023年2月号に掲載していただきました。
編集部の方々、取り分けこの山行に目を留めていただいたF氏には、感謝申し上げます。
そして、いつも私の拙い山行日記に目を通して下さるヤマレコユーザーの方々にも、この場を借りて感謝申し上げます。
山中で味わう景色はどれ一つとして同じものは無くいつも新鮮であり、山は分け隔てなく誰にも険しく、厳しく、優しく、そして美しい。
そんな魅力溢れるフィールドに心惹かれる事は、至極当然ではないだろうか…そしてその心惹かれるフィールドに体力と気力の限りを尽くし挑戦し続ける事、それが出来ることは幸せなのだと思う。
コメント失礼致します。
奈曽渓谷、いつか訪れてみたい場所の1つでしたので、思わず目に留まりました。
じっくり何度も拝読させて頂きました。
奈曽渓谷の素晴らしさが、文章を通じて伝わりとても感動しました。
何より感動したのは、貴殿の文章力の素晴らしさです。
行間から伝わる渓谷の雰囲気や匂い、心情など、まるで私もその場に一緒にいるかと錯覚するような臨場感でした。
近年は、写真や動画をあげれば一目瞭然て、簡単でわかりやすい記録の残し方になっていますが、私はこのような記録の残し方が理想なのかなと思います。
私には貴殿のような文章力がないのでそれは叶いませんが、読んでて本当に感動しました。
僭越ながらフォローさせて頂きます。
過去の日記に残されている記録も、時間をかけてゆっくり拝読させて頂きます。
ありがとうございました。
はじめまして。
コメントありがとうございます!
登山を初めてから早8年。
過去の岳人達が残した記録の断片に触れる度に、登山者として自分は未だひよっこだなぁ…などと思いを巡らす昨今。
この様なお褒めのお言葉を頂戴し、感謝申し上げますと共に、大変嬉しく思っております。
SNSやGPS、最新の情報や装備が誰でも当たり前に手に入るようになった現代。
ともすれば、知らない町に買い物に行く程度の下調べさえすれば、未踏の山域でも無事に目的地に到達できる昨今とは違い、試行錯誤の上に熟慮を重ね、意を決して山行を成功させていたことだろう当時の岳人達の気力と体力、そしてその熱意には目を見張るものがあります。
山行記録を少し拝見させていただきましたが、手に汗握る昔の岳人に通じる魂の揺さぶりを感じる沢登りの記録の数々、感服いたします。
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