暗闇に包まれた奈曽川沿いの林道を南へと進むと、やがて除雪の終了地点へと到着し、車を路肩に停止させた。
辺りには他に車や人の気配は無く、どうやら本日最初の入山者は自分のようだ。
時刻は4時28分。
身支度を済ませ、20kg程あるザックを背負い、ヘルメットに取り付けたヘッドライトの明かりを頼りに、雪に覆われた林道へと歩みを進めた。
昨日は雨が降ったらしく、表面が凍結した雪の中は柔らかく、一歩進む度にズブズブとスノーシューが沈み込む為、非常に歩きにくい。
林道の両脇には杉林が続いており、右手の木々の隙間からは月明かりが差し込んでいる。
ふと立ち止まり見上げれば、頭上には満天の星が輝いており、ヘッドライトの明かりを消して、少しの間眺めてみる。
今日の山行も素晴らしい景色が期待出来そうだ。
しかし、この春を思わせるような天候では、これから遡行する奈曽川の状況が思いやられる…。
期待と不安を胸に、ぬかるむ林道に再びヘッドライトの明かりを灯し、一人黙々と歩みを進める。
やがて一般的な冬ルートの入口とされている七曲入口を通り過ぎ、更に暫く歩き続けると、辺りは徐々に明るさを増し、やがて夜は明けた。
明るくなった林道には、時折生々しい雪崩の跡があり、デブリを迂回しつつ進んで行く。
6時57分、林道の終点となる巨大な堰堤前へと到着した。
昨年の遡行に引続き、見覚えのある堰堤を前に、先ずは一息付きつつ堰堤を越える策を考えるが、積雪のある今は雪が足掛かりとなる左岸の急な斜面を登り、堰堤の最上部へと上がる事とした。
僅かな休憩の後、難なく堰堤の最上部に上がり、目の前に現れた奈曽川の景色は…。
両岸に一気に立ち上がる切り立った崖から流れ込む生々しい雪崩の跡。
そして川を覆い、至るところに深く大きな亀裂が入った雪面と、その亀裂の中の3メートル程下をザーッという音を響かせながら流れる奈曽川の流れ。
さて、何処を進もうか…唖然とするような惨状に途方に暮れつつもルートを探すが、先ずは右岸への渡渉が必要と判断し、仕方なくスノーシューを外し、堰堤のブロックを伝い沢へと降り立った。
そして雪の亀裂の中を流れる沢の浅瀬を選びつつ対岸へと進み、雪壁が崩れ落ちた場所から右岸へと上がることに成功した。
早速スノーシューを装着し、ぬかるむ雪面を上流へと進む。
雪面の状況を慎重に探りつつ、亀裂や雪崩によるデブリを避け、暫く歩みを進めると、視線の先には、今までとは比べ物にならない程の大規模な雪崩が発生しているのが見え、巨大な岩を伴いながら沢幅をいっぱいに埋め尽くした雪の塊には、恐怖を禁じ得ない。
いよいよ雪崩の巣窟、奈曽渓谷の本性を目の当たりにし、やや気後れしそうな気分を押さえつつ、ここでビーコンのスイッチをONにした。
そして周囲を警戒しつつ、目の前に広がるデブリを恐る恐る越えて行く。
高度は約800メートル。
この場所を境にして沢の流れは雪の下へと消え、沢を埋め尽くす足元の雪も締まり、ぬかるむ事もなくなった。
気がつけば、辺りは風もなく静寂に包まれており、見上げた先の稜線直下の岩壁には、大きな氷柱を伸ばし、氷瀑となった白糸の滝が迫る。
しかし、いかに幻の滝と言われる白糸の滝と言えども、この巨大な渓谷の中にあっては、岩壁の一部のツララに過ぎないと思える程、辺りに見える景色はスケールが大きく素晴らしいものだ。
渓谷は南から東の方角へと大きく向きを変え、更に歩みを進めると、この深さ300メートル以上ある深い谷間にも陽の光が差し込み、クラストした雪面をキラキラと輝かせている。
青空の下に広がるあまりの美しい光景に、つい見とれてしまい緊張感が解れてしまうが、ここは正に雪崩の巣窟の真っ只中だ。
予定では、この危険地帯を気温があまり上がらない午前中の内に踏破し、蟻ノ戸渡に到達しなければならない。
気を取り直し、谷間を埋め尽くす真新しい雪崩の痕跡と共に行くを手を塞ぐ無数の巨大な雪の塊を避けながら先を急ぐ。
9時49分、高度約1150メートル。
蟻ノ戸渡へと通じる辺りを崖に囲まれた広場へと到着した。
この場所から蟻ノ戸渡へ向けて行くには、東側へと続く谷間の急な斜面を更に登らなければならないが、一気に斜度を増した斜面には、表層雪崩が発生しており、行く手を眺めながらルートを思案する。
斜面の右の尾根の脇をたどり、大きく右側から上部中央に向かって回り込めば、万が一また雪崩が発生しても巻き込まれずに済みそうだ。
スノーシューでも斜面への食い付きが良いので、トレッキングポールを短く調整して斜面に取り付く。
高度を上げて行くと、斜度が増してくると共に雪面も凍結し、いよいよスノーシューのスパイクでは困難となった為、一旦ルートを外れ、斜面に開いた大きな亀裂に腰掛けながらスノーシューからアイゼンへと履き替え、ピッケルを手にして再び斜面に取り付いた。
右手から朝の陽の光を浴び、息を切らせつつ幾度となくピックを雪面に突き刺し、アイゼンの前爪を蹴り込みながら登り切り、斜度が緩やかになったところで一息付いた。
振り向けば、V字型に切れ込んだ奈曽渓谷の迫力ある全容が露となり、目の前には青空の下、黒い岩と真っ白な雪とのコントラストが美しい絶景が広がっている。
遥か遠くの稜線上には、雪に埋もれて雪面に屋根を覗かせた鉾立山荘が見える。
時刻は10時56分。
午前中に到達予定の蟻ノ戸渡は、もう直ぐであり、 左手に見えるジャンダルムにも、もうすぐ手が届きそうな距離だ。
まだ難所は続くが、ここまで来れば、もう雪崩の心配をする必要は無さそうだ。
風もなく静寂に包まれながら、ふと気がつけば、何やら足元のクラストした斜面をカラカラと音を立てながら転がり落ちて行く物がある事に気づいた。
大きさは1〜3cm程。
陽の光を浴び、多角形に形成されたダイヤモンドの様にキラキラと七色に輝きながら、次から次へと絶え間なく足元を通りすぎて行く…。
一見して透明の氷の粒なのだが、これはいったい何処から来るものだろうか?
斜面の最上部に見えるのは、蟻ノ戸渡の稜線とジャンダルムだけなのだが…。
初めて見る光景に不思議に思いつつ、奈曽渓谷の終点となる蟻ノ戸渡を目指し、またゆっくりと歩みを進める。
少しすると、谷間の先には大きな窪地があり、窪地の中を除き込むと、先程から足元を転がって行くものと同じ沢山の氷の粒が見える。
絶え間なく斜面の上から転がってくる氷の粒は、この場所に留まるものもあれば、素通りして更に下って行くものもあり、窪地にたまった氷の粒は、まるで沢山のダイヤモンドを集めたかの様にキラキラと輝き、非常に美しい。
不思議に思いながら、絶え間なく続く光景を少しの間眺めた後、窪地を後にして更に登り続ける。
11時29分。
予定通り蟻ノ戸渡へと到着した。
晴れ渡る空の下、時折流れてゆく弱い風が、火照った頬を優しく撫でて行く。
足下がスッパリと切れ落ちたこの稜線上から連なる外輪山は、新山の裏側へと回り込んでおり、その外輪山を従えた真っ白な鳥海山(新山)の姿は格別な美しさだ。
午前中の内に雪崩の巣窟である奈曽渓谷を踏破し、先ずは一段落といったところで、この場所で昼食にすることとした。
雪庇の付け根に深くクラックの入った稜線上に、ピッケルを突き刺してセルフビレイとし、クラックの端に腰掛けながら千蛇谷へと繋がる広大な斜面を眼下に眺める。
真っ白な背景の中を小さな人影が数人上り下りしているのが確認でき、大きく手を振ってみるが、残念ながら反応は無いようだ。
そして持参したおにぎりを頬張り、水筒の熱いお茶で喉を潤す…程よい達成感を胸に至福の時が過ぎて行く…。
ふと耳を澄ますと、何やら先程の氷の粒が斜面を転がるカラカラという音が聞こえてくる。
どうやら発生源は、この周辺のようだ。
音のする方向に目を凝らすと、灌木の枝から剥がれ落ちた氷が、音を立てながら斜面を転がり落ちて行くのが見える。
恐らく昨夜の雨で灌木に着氷した透明の氷が、蟻ノ戸渡を吹き抜ける弱い風により落下し、キラキラと輝きながら斜面を転がり落ちて行くようだ。
それにしても絶え間なく転がり落ちるこの現象は、なんとも不思議な光景だ。
さて、絶景を目の前に空腹も満たされた後は、再び肩にズシリとくるザックを背負い、装備の確認を済ませ、次の難所へと向かう。
蟻ノ戸渡からジャンダルムの西側へと右手のピッケルを雪面に深く突き刺し、アイゼンの爪の感触を確かめながら、一歩、また一歩と確実にトラバースして行く。
ジャンダルムの西側斜面の雪質は既に高く昇った太陽の光により、ざらめ雪となっており、突き刺したピッケルの感触から空洞化している場所もあるようだ。
頭上へと続く斜面を眺めながらルートを決め、先ずは右手に持ったピッケルのブレードで左手のホールドを作り手掛かりとし、雪面にピックを深く突き刺し、第一歩を踏み出す。
アイゼンのフロントポイントの利きが悪く、数回のキックを繰り返し、ホールドを決める。
時折空洞化した雪面をピッケルやアイゼンが突抜け、ヒヤリとするが、無事にジャンダルムの北側稜線上へと到着した。
細い稜線上は、雪庇が崩れ始めており、深く大きなクラックが稲倉岳へと続いている。
稜線の東側は150メートル程の高さの絶壁となっている為、失敗は許されない。
気持ちを落ち着け、細心の注意を払いつつ稲倉岳へと続く細い稜線に、一歩、また一歩と歩みを進める。
時折雪面にかくれた小さなクラックを見逃し、踏み抜く度に背筋が凍り付く思いを繰り返し、安全地帯へと転がり込んだ。
緩やかな傾斜となった稜線上から振り向けば、眼下にはこれまで辿ってきた奈曽渓谷の美しい姿が見え、そして心の中には、達成感がふつふつと沸き上がる。
ここまでくれば、もうこの先のルートには難所と言えるものは無く、今日の予定は宿泊場所であるイグルーの製作を残すのみだ。
そして、稲倉岳の南側に広がる広大な雪原の真ん中へと進み、ビーコンのスイッチを切り、肩からザックを下ろしてほっと一息ついた。
時刻は13時、見渡せば、風もなく静かな雪原には、青空の下、日差しが燦々と降り注ぎキラキラと輝く雪面が眩しい。
ザックからスコップとスノーソーを取り出し、雪質を確かめるが、ザラメ雪の下は、ガチガチに固い雪の層があり、イグルー製作に向かないが、仕方なくこの固く重い雪を切り出して積み上げる事とした。
先ずは雪面に円を描きその中の雪をブロック状に切り出し、ズッシリと重いこのブロック状の雪で円に沿って土台を作る。
更にイグルーの入口の外側へと切り出して行き、ブロックを次から次へと積み上げる。
積み上がった後にブロックの隙間を雪で埋め、入口をシートで塞げば完成だ。
2時間半程を費やして完成したが、我ながら、なかなかの出来映えに満足した。
そろそろ疲れもピークとなり、早速中に入り、簡単な夕食を終え、再び外に出て見ると、日本海に沈み行く太陽に、鳥海山、奈曽渓谷、稲倉岳、共に辺りはオレンジ色に染まり、一日の終わりを告げているかのような穏やかな夕暮れの時間を迎えている。
感動的な光景に包まれ、イグルー製作で余ったブロックに腰掛けながら、日本海に沈みゆく夕日を眺める。
水平線の彼方にスーっと太陽が沈むと、間も無く辺りには風が吹き始め、寒さも増してきたため、イグルーに入り、ダウンを着込んで早々に眠りについた。
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