人影もなく穏やかな朝を迎えた太平山旭又口駐車場には、サラサラと流れる沢の音だけが聞こえている。
6時20分、今年初の沢装備を身に付け、駐車場の対岸に続く山道へと架かる橋を渡り、今日の山行をスタートした。
山道は直ぐに分岐点へと差し掛かり、右手へと歩みを進める。
杉林の中には広く平坦な山道が続いており、暫くしてコンクリート製の細い橋を渡り、緩い坂道を暫く進むと、6時47分、本日の入渓地点である、弟子還沢へと架かる橋のたもとへと到着した。
昨夜の雨での増水を心配していたが、沢の水量は然程でも無く、せいぜい膝丈程度の深さに先ずは一安心し、早速透明度の高い弟子還沢へと足を浸し遡行を開始した。
15メール程ある沢幅いっぱいに横倒しになった流木を避けつつ、大小様々な大きさの石が埋め尽くす沢の中を進んで行くと、7時、目の前には落差15メール程の直瀑が現れ、辺りに大きな音を響かせている。
直登は難しいと判断し、新緑の中を流れ落ちるこの美しい滝を眺めつつ周辺のルートを探り、左岸の斜面から巻く事とした。
泥で覆われた斜面に沢バイルで足場を作りつつ灌木を手掛かりに登るが、ズルズルと滑る斜面に想像以上に苦戦を強いられ、漸く滝の落ち口へと向かうが、滝の少し上流には更に堰堤が現れた為、堰堤の上へと降り立ち上流へと歩みを進めた。
太平山の弟子還と言えば、鎖場の難所として知られている為、その西側コルを源頭とするこの弟子還沢もかなり困難な遡行を強いられる事を想像していたが、今のところその兆候は見られず、沢登りと言うよりは、沢歩きと言った状況が続いている。
7時56分、苔むした6メール程の滝が現れ、正面から取り付くが、ヌルヌルと滑る岩肌には足掛かりが乏しく、チェーンスパイクを装着して水しぶきを浴びながら直登すると、ここから状況は一変した。
瑞々しい緑に輝く苔で覆われた岩の隙間を縫うようにして流れる沢の様相は非常に美しく、感動的な景色が広がっている。
そして行く手に現れた小さな滝を四肢を駆使して越えて行くと、沢筋は徐々に傾斜を増し、それと同時に両岸の岩壁も斜度を増していった。
8時14分、最初の二股へと到着。
地形図を確認し、右股へと進み、更に次の二股を左股へと進むと、4メール、7メールと苔に覆われた小滝が続いて現れ、直登する。
進むほどに狭くなる沢の右手の岩壁には、人知れず咲いた薄紫色のシラネアオイの花が咲いており、緑一色の景色の中に彩りを添えている。
V字型の谷間はいよいよ深さを増し、更に登り続けると、8時47分、高度約800メールから雪渓が現れた。
行く手を塞ぐように大きく崩れ落ちた雪渓からは蒸気が立ち昇り、険悪なムードが漂っている。
恐る恐る雪渓の上へと歩みを進めると、少しして足元には岩場が現れ、先ずは一安心したが、行く手を見上げれば、この先にも雪渓が続いているのが確認でき、斜面の遥か先には、弟子還らしき切り立った崖が靄の中にうっすらと見える。
気を引き締め、また雪渓の上へと歩みを進めるが、進むほどに斜度を増し続ける谷間にチェーンスパイクだけでは一歩踏み込む度にズルズルと滑り始め、歩行が困難となった為、ピッケル代わりに沢バイルのスピッツェを雪面に突き刺し、沢靴の爪先を蹴り込みつつ一歩一歩確実に登って行くが、身の回りには数十匹の小さなハエのような虫がまとわりつき、肌をチクチクと刺され、集中力が削がれる。
まとわりつく虫を払いのけつつ暫く歩みを進め、ふと振り返れば、眼下のV字型の谷間の先には、深い緑に覆われた美しい周辺の山々の姿が見え、もう随分高度を上げた事に気付く。
更に歩みを進めるが、9時13分、頼りにしていたチェーンスパイクが切れ、息も上がってきた為、この辺で修理も兼ねて少し休憩する事とした。
高度は約885メール。
ハーネスと繋がった沢バイルを雪面に深く突き刺してセルフビレーとし、雪渓の僅かな窪みにザックを下ろした。
雪面に転がる石を手に取り、切断したチェーンを叩いて修理を完了した後は、辺りの景色を眺めながら持参したクリームパンを頬張り、水筒のお茶で喉を潤す。
見下ろしたV字型の谷間の遥か先には岩場が見える。
万が一ここで滑落すれば…雪渓を一気に加速し、数百メール先のあの岩場に激突する光景が目に浮かびゾッとする。
少しの休憩の後は気を取り直し、また雪渓を登り始めるが、斜度は更に増し、右手に持つこの短い沢バイルがピッケル代わりに丁度良いと思える程の急な斜面が続き、沢の上流からは時折落石があり、目の前をガラゴロと音を響かせながら転がって行く。
神経を磨り減らしつつ登攀を続けるが、いよいよ斜度もキツくなり、雪渓上の登攀が不可能となった。
仕方なく、右岸の切り立った崖と雪渓の端との数十センチの隙間を縫うようにして登るが、万が一この狭い隙間から雪渓の裏側へと滑落すれば、這い上がることは非常に困難なことが容易に想像でき、慎重に登って行く。
やがて雪渓は終わり、ガレ場となった斜面に四肢を使いつつよじ登るが、踏み込む度に崩れ落ちる石に悪戦苦闘する中、数百キロはあると思われる岩が体重を載せると意図も簡単に谷間を転がり落ちていく。
どうやら先程の落石の発生源は、この辺らしい…。
一難去ってまた一難と言ったところか…。
9時37分、高度約1000メートル。
頭上には弟子還の鋭く立ち上がる岩場が現れ、更に斜度は増していく。
足元はガレ場からザレ場へと変わり、既に二本の足だけでは立つ事も叶わず、疎らに生えた細い灌木に左手でしがみつき、右手の沢バイルをザレ場に突き刺しながらの登攀となった。
地形図によれば、目指す弟子還沢の源頭部は、弟子還の切り立った岩場と宝蔵岳の間にある稜線上のコルとなっており、その場所は崖の記号が記されている。
果たしてこの調子で稜線に上がる事が出来るのだろうか…。
ザレ場に悪戦苦闘しつつ登り続け、いよいよ左手に鋭く立ち上がる弟子還直下の岩場へとたどり着いた。
稜線は既に数メートル先の頭上に迫るが、もう辺りには満足なホールドとなる物は無く、ある物と言えば斜面から真横へと細い幹を伸ばすツツジの木だけだ。
仕方なく頼りないそのツツジの木に全体重を預け、何度か登攀を試みるが、ザックが枝に引っ掛かり、思い通りに登ることが出来ず、時間と共に容赦なく腕の筋力が消耗していく。
そして9時46分、腕の力を振り絞り、腕力で崖から這い上がり、稜線上へと到着した。
稜線上には、沢山の鮮やかなピンク色のツツジの花で飾られた山道があり、ツツジの花が咲く崖っぷちから始まる険しい谷間と、その周辺の緑とのコントラストが非常に美しく、この感動的な景色を前に一人悦に入る。
暫く喜びと共に感動を味わった後は、太平山奥岳山頂を目指し、直ぐ先にある弟子還と呼ばれる鎖場の直下へと山道を進んだ。
弟子還沢を詰めた今となっては、この見上げる程の弟子還の鎖場が平凡な坂道に見え、鎖に触れることなく躊躇せずに登り終えると、少しして視線の先にはお社が建つ太平山奥岳山頂が姿を現した。
山頂まであともう一息だ…。
そして、10時29分、古めかしい木製の鳥居を潜り抜け、誰も居ない太平山奥岳山頂へと到着した。
標高1170メートルの穏やかな風が流れる山頂では、登頂を祝ってくれるかの様に、淡いピンク色の花を咲かせたミネザクラが迎えてくれた。
お社に手を合わせ、木製のベンチに腰掛けると、少しして沢山の登山者が到着し、山頂は賑やかなムードに包まれた。
陽気な登山者との僅かな会話を交わした後は、ザックから昼食のおにぎりを取り出す。
視界の中をゆっくりと通りすぎて行く雲の流れの隙間に見える青い空、そして眼下にキラキラと輝く秋田市の町並みを眺めながらおにぎりを口に運ぶ。
途端に口の中にはおにぎりの旨さが広がり、それと共に無事に弟子還沢遡行を終えた充実感が心に染みてくる。
旨い飯に想像を超える美しい景色、そしてやった感。
最高のひと時を満喫する。
これだから山登りは止められないのだ。
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