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藤原宮は、日本最初の碁盤目状の「条坊制」の都として造営された「藤原京」の皇居部分です。(なお、「藤原京」という名称は近代になって用いられた学術用語で、日本書紀には「新益京」(あらましのみやこ)と記されています)
さて、こんな話をすると私の年齢がバレるようでイヤなのですが(笑)、かつて昭和の歴史教科書に掲載されていた藤原京の図面は、大和三山に囲まれる形の(厳密には天香久山のみ割込む形になっていますが)小ぢんまりしたものでした。
しかし、その後の発掘調査によって大和三山の外側に条坊制道路の遺構が発掘され、その規模は、その後の平城京や平安京よりやや大きめの「大藤原京」であったことが判明しました。
なお、平城京と平安京は唐の長安城と同じく皇居を都城部分の北端に置く「北闕型」でしたが、藤原京は、歴代の中華王朝が理想の王朝と考えた「周」の行政について書かれた儒教の書物「周礼」(しゅらい)に記された理想の王城を具現すべく、皇居の藤原宮を藤原京の中央に置く構造でした。
そんな立派な藤原京だったにもかかわらず、694(持統天皇8)年に飛鳥浄御原宮から遷都されて僅か16年目の710(和銅3)年、未完成のまま放棄され、平城京に遷都されてしまいました。
藤原京放棄の理由としては、
一旦は中二病的にイキって周を気取ってみたものの、やっぱり唐と対抗するためには唐と同じ北闕型でなきゃダメってことになった(藤原京の場所のままでは、皇居を北にズラそうにも耳成山がジャマになる)
飛鳥に根を張る古代豪族たちを都城に移住させ、新たな律令国家の官僚とすることで中央集権国家化しようとしたものの、飛鳥に隣接して通勤(?)可能の藤原京に彼らが移り住もうとしないため、飛鳥から離れた場所に都を移す必要があった
藤原京は水はけが悪く、タレ流されたウ〇コが皇居に流れ込むトンデモない状況だった
等の説があるようです。(私見としては、大和三山を抱え込む形の場所に、図面通りの藤原京を完成させること自体が「無理ゲー」だったと思うのですが…)
また、教科書的には、平城京遷都は元明天皇が主導したことになっていますが、実際にイニシアティブをとったのは朝廷の実力者・藤原不比等であって、彼が藤原氏に都合の良い構造の新たな都を造営するため、上記のようなことを理由として渋る女帝を説得したという説もあり、古代史研究で知られる建築家・武澤秀一博士などは、その著書「持統天皇と男系継承の起源」(ちくま新書)において、平城京を「藤原氏の藤原氏による藤原氏のための都」とまで表現されています。
結局、なんだかんだで元明女帝は、「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」の歌を残して、亡き夫・草壁皇子と亡き息子・文武天皇の思い出がいっぱい詰まった飛鳥と藤原京をあとにしたのでした。
藤原不比等の存在無くして、その後の朝廷は無かったでしょう
奈良へ行ったのもかなり昔です
一度は奈良の正倉院展に行きたいと思いつつ、果たせずにいます
おっしゃる通り、のちに「淡海公」と諡される藤原氏中興の祖ともいうべき不比等の存在がなければ、朝廷と藤原氏の関係も、また別のものになっていたことでしょうね。
やっぱり、鷲尾健さんのように関東にお住いの方は、中々奈良にいらっしゃる機会がないんですね…。
奈良国立博物館の正倉院展は、展示物のすばらしさは申し分ないのですが、いつも矢鱈と激混みなのが玉にキズです(笑)。
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