新編相模国風土記稿. 第1輯
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763967
コマ番号287〜290
―――――――――――――――――――――――――――――――――
中川村(奈可加波牟良[なかがはむら])[その1]
江戸より行程28里半。当村も旧は河村郷を唱えしが、今その唱を失う。正保元禄の国図には川村の内と傍記す。名義は村の中央に川あり、中川と唱う。これをもって名附くという。
民戸67。東西3町ばかり。南北1里70町余(東、玄倉村。西、世附村。南、神縄、世附二村。北、津久井県および甲州郡内山さかい)。北条氏の頃は、遠山左衛門尉景政近郷に移住し、兼ねて当村のことを預り知りしと見えたり(村民所蔵の記に曰く、小田原北条氏直之御子息、左衛門佐殿は、甲斐信玄公駿河今河義元を怖れ、川西畑峯に城郭を構え居住なされ候、時に天正7[1579]年戌寅3月。甲州信玄公御領内大窪村[現・道志大久保地区]百姓、中川村へ夜討致し、佐藤藤左衛門そのほか四人の首をとり、ならびに伊賀女房同娘共二人生け捕る。山路を差て迯[にげ]行くところ、清右衛門九郎左衛門そのほか七人にて追い詰め、右三人者共を取り返す。その旨左衛門佐殿聞き召され、玄倉川まで御出馬なされ、名主因幡佐藤六郎右衛門そのほかの者共御前に召し寄られ、夜討の次第委敷御尋ねなり云々)。
今、大久保加賀守忠真領す(領主の遷替は前村に同じ)。検地は寛永17[1640]年、万治3[1660]年の両度。稲葉美濃守正則糺せり。
・小名 宝来沢(波宇伎佐波[はうきさは]) 大仏 大小屋 上野原 小塚 湯ノ沢 ヤケズ
・山 当村四囲すべて山なり。中に就て西北の方甲州さかいに城ヶ尾といえるあり。一に信玄屋敷とも信玄平とも唱う(甲斐国志に見えたるところ下に注記す)。土人伝えて村内小名上野原より津久井県センヌキ[現・道志善之木か?]辺への古道この地に在りしという。また甲州道志村(都留郡の属)の山中を経て、当村に出る間道を、サカセ[現・三ヶ瀬]古道と唱う。旧く甲州より小田原に到る捷径なりというも、この辺のことなり(甲斐国志サカセ古道の条に、道志村塞地の山中サカセ入という地より山を越て相州西郡の内中川村に出る間道あり。この間およそ2里半。古小田原への通路なり云々。また加古坂の条に、サカセ峠に上がり、嶺上を行き20町ばかりに●峯を掘破し趾あり、堀切という。峯を下りて相州に入る。少し平地あり、信玄平という。これより相州世附村に下る云々とも見えたり)。このほか菩提山[世附権現山か]、板小屋、箒沢など称するあり。この山中の杉、檜、欅、樅、樛[つが]、榧[かや]等の六樹は猥りに伐ることを禁ず。
・中川 北方の山間より出る山水、会同して一流となり、村の中央を流る。土橋1、独木橋6(共に長5間)を架せり。
・清水 東南の方、字城山古城跡石垣の傍より湧出し、中川に沃ぐ。
・沢6 一は北方深山の清水合して一流となり宝木沢と唱う。これ中川の上流なり。一は大嶽沢という。北寄にあり。一は湯ノ沢。一は棚沢[大杉山源流]と唱う。共に東方にありて中川に合す。一は大俣沢という。西方にありて世附村へ流る。一はホウギヤウ沢[法行沢]という。同辺にあり。この余小沢多し。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
(この項続く)
中川村の項目は長いので、3つに分けます。
丹沢湖から北に流れる支流は今では中川川といわれていますが、以前から「変なの!」と思っていました。これを見ると、やっぱり普通に中川でいいんじゃないですかね(^^;
甲州の大窪村というのは、次回以降の続きで出てくる「所蔵の書」の引用では大久保村となっており、現・大久保地区で間違いないと思います。今の道志の湯の近くで、白石峠を越えて道志川に出てまず辿り着く地域です。山(国境)をへだてて、仲悪かったみたいですね(^^;(この経緯は、次回以降でもっと詳しく書かれています)
箒沢、地域名で「宝来沢」、沢名で「宝木沢」と書かれています。箒沢の語源は普通、箒杉が、箒の形をしてるから、とか、宝の木(六樹)の場所だから、といわれています。でも「宝来」というと、「ほうらい」と読むのが普通。「ほうらい」といえば「蓬莱」。奥野幸道氏の『丹沢今昔』には、箒沢は「藤原秀郷の家来で『奥州和の内佐藤伊賀守』が落ちのびて(中略)巨大な杉が二本あり、この下に安住の地を求めた」とあります。落人が人里はなれた地に逃れてきて、平安な地を望み、またトーナル岩の真っ白い沢の仙境ということで蓬莱=宝来と名付けた…なんて空想もできます(中川温泉まで来ちゃうと、もうトーナル岩じゃないので、白くないのです)。
サカセ古道(江戸時代から古道だったんですね(^^;)と城ヶ尾峠、信玄平のあたりは、今と大して変わらない感じですね。甲斐から小田原への早道として、結構使われていたようです。センヌキというのは、多分道志の善之木(今の道の駅道志のあたり、三ヶ瀬川が道志川に合流する)のことでしょうか。
城ヶ尾峠は、白石峠、犬越路に比べれば、標高差もけわしさも格段に少ないし、今歩いても、馬を通すこともできただろうと思えるし、今の登山道のある尾根上ならば信玄の軍がここを越えたというのは、納得がいきます(ただ、今でも石組みの残る城ヶ尾峠への古道らしき経路は、尾根上でなく、尾根の東側を巻いているのだけれども)。
峠から「嶺上を行き20町(約2.2km)」にあるという「堀切」とはどこなんでしょう。この地蔵尾根でいえば、ちょうど、登山道が尾根から地蔵平側に下るあたりになります。見晴らしがよければ、最高の見張りポイントといえます。当時と現在では、この辺の植生はまるで違っていた可能性があると思うので(特に宝永以前と以後では)、もしかしたら、新田が城ヶ尾に作った砦というのは、そのあたりにあって、堀切はその遺物なのかもしれません(城ヶ尾峠や城ヶ尾山の頂上に砦があったなんてのよりは、ずっと現実味があります。水とか汲みにいくの大変すぎ(^^;)。
「菩提山」という名前が出てきますが、これはどこのことでしょう。焼津で中川に注ぐ菩提沢という沢があるので、その源流である世附権現山で間違いないでしょう。箒沢権現山も目立つ山ですが、さすが世附権現山は本権現といわれるだけありますね!(そういう問題じゃないか(^^;)
沢の項目の「大嶽沢」はどこのことでしょう。箒沢より上流は「宝木沢」でまとめられているので、あと残る目立った沢といえば、大きな棚の数多い大滝沢しかありません。あるいは現地の人が「おおだきさわ」といったのを、「おおだけさわ」と聞き違えたのかも?(先ほどの「センヌキ」も、「ぜんのき」と言ったのを聞き違え、なんのこっちゃと思いつつ、カタカナで誤魔化したのかも(^^;)
ちなみに、この稿では、新編相模国風土記稿に関する他の資料は一切参考にせず、一次資料のみと、山の本、自分の知識と経験などで、自分勝手に解釈をしています。
だから、学術的な価値はゼロですので、信用しないでくださいネ(^^;
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する