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2016年02月14日 15:26新編相模国風土記稿全体に公開

新編相模国風土記稿 中川村[その2]

新編相模国風土記稿. 第1輯
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763967
コマ番号287〜290
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中川村(奈可加波牟良[なかがはむら])[その2]
・温泉  東方字湯河原という所より湧出す(方3尺ばかり)。効験薄く冷湯にて浴に堪えず。村民瘡痍を療するに充てるのみ。建武2年、細川四郎入道義阿、湯治のためにとて、相摸[模]川村山に有りけると梅松論に載せたるは、当所をいえるにや(曰く、建武2[1335]年、細川四郎入道義阿、湯治のためにとて、相摸[模]川村山に有りけるところへ、子息陸奥守顯氏の方よりこれまで無為に御上洛の由、使節を遣わしけるに、我が敵の中に在りながら一功を成さらんも無念なり。存命せしめは面々心許なく思うべし。所詮一命を奉り思う事なく、子孫合戦の忠を致さすべしとて、使の前にて自害す)。また、川村山北に湯坂と唱うる所も旧く温泉湧出せし所なりといえば、その地なるにや、今一定し難し。
・大室社2 一は村の鎮守、例祭9月20日、相殿に八幡山神を置く。一は神木に杉大樹(7囲ばかり)あり[現・箒杉のことか]。共に村民持。下同。
・御嶽社2  一は山神を合祀す。
・神明社2
・第六天社2 一は神木に杉(3囲ばかり)あり。
・蔵王権現社
・子神社4  二は山神を相殿とす。
・玄倉寺  海応山と号す(ある説に、昔玄倉村に在りしを後この地に移す。故に寺号とすといえと。寺伝もなく正しき証迹なし)。曹洞宗(川村向原香集寺末)。天正年中の創建にて、開山蘭甫(本寺四世、天正10[1582]年12月9日寂す。この僧隠栖の地として起立せしなるべしという)。本尊釈迦。
・観音堂  十一面千手の二体を置く。村民持。
・室生明神社蹟  小名大仏下(神縄村山さかい)城山にあり。昔明神鎮座の地なりしが、後川村岸に移し、その後川村山北に遷るという(今もその因にて室生社祭礼流鏑馬には当村と神縄村と隔年に的板の料を納む)。
・湯ノ沢城跡  小名湯ノ沢にあり。北条氏の支城にて、永禄12[1569]年12月、武田信玄のために没落し、それより廃城となれり(鎌倉九代記、永禄12年12月、武田信玄蒲原城を攻める時の条に曰く、去する10月、三増峠にして軍に打ち勝つ。北条方の兵多く亡びしかば、新城、湯ノ沢已下の城、大いに手こりし。一怺もせず。皆明け渡す云々。甲陽軍鑑にも新庄、湯ノ沢等の城名を並び挙ぐり)。当城は、松田新次郎康隆が守りし所なり。里正[里の長]が所蔵の記に、その広袤[こうぼう:「広」は東西の、「袤」は南北の長さ。広さ、面積]を詳載す(曰く、松田新次郎殿御城跡、湯沢の城と申し伝え置き候。東西へ10間、南北へ35間。西方尾伝堀長20間、横3間。北へ350間程之タイ[?]御座候。南へ300間ほどの谷御座候。東は面口、山の尾伝本城より北に当り、沢水御座候。これは103年已前に甲斐信玄と戦いにて、零落仕り候由申し伝え候。本村より本城まで、道法14町50間御座候云々)。
・古城跡  東南の方、中川の東岸にあり、城山と唱う(東西26間、南北70間ばかり)。西方に石垣(高4尺あまり)、南方に堀形(長20間ばかり、幅6間ばかり)遺れり。土人伝えて、往古河村氏の持城という(河村山城守秀高の氏族多く河村郷中に居住したれば果してそれらの持城なるべし)。傍に第六天社あり。この他、西北甲州さかいに城ヶ尾と唱うる所あり。按ずるに、土人の伝に、新田義興鎌倉を落ちて村内に城郭を構えしが、無勢にして保ち難く、当村の奥箒沢より山越して甲州へ落ちしといい、また村民所蔵の記にも、昔義興鎌倉を遁れ、所々の山奥に潜みしというは、村内城跡三所の内なるべしと記せしを以って考うれば、けだしこの城ヶ尾の地なるべきか。さては文和元[1352]年、義興須臾[しゅゆ:少しの間]河村城に籠り(文和元年3月義興敗して河村城に籠り、また尊氏に攻められ、翌る2年何くともなく遁れし由、太平記に見えたり。委は川村山北河村城跡の条に録す)、それより移りて此所に潜みしが、なお保ち難く、直ちに甲州に遁れしなるべし。また按ずるに、この城ヶ尾を字して信玄屋鋪とも唱え、永禄12[1569]年、武田信玄此所に宿陣せし地なりとも伝うれば、当時信玄も此辺に堡障など構えしにや。また南方小名大仏下にも城山と唱うるあり。これも旧き出城の蹤跡にて、鎌倉九代記に新庄、足柄、湯ノ沢已下九ヶ所の城と載せ、永禄12年信玄のために落去せしその一なるべし(永禄12年12月の条に曰く、この頃新庄、足柄、湯ノ沢已下九ヶ所の城はみな信玄に開け渡し云々)。
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(この項続く)


中川温泉(湯河原)は昔からあったようですが、温度は低かったようです。基本的に丹沢の温泉(中川とか七沢とか)は、中央部で見られる真っ白な岩・石英閃緑岩(マグマが冷えたもの)の余熱で温められた地下水なので、もうずいぶん冷めちゃってるということです(ちなみに鶴巻温泉は地下に閉じ込められた海水の温泉なので、出来方が全然違う)。
大室社にある「神木に杉大樹(7囲ばかり)」というのが、今の箒杉のことでしょうか。1囲とは人が両手を広げて囲んだ長さらしいので、1囲150cmとすると、7囲は10.5m。現在の箒杉の幹周りは12m程度らしいので、まあ大体あってる感じ。
室生神社は、「川村山北に遷る」とあるとおり、現在は山北のサークルK(西丹沢に行くときの最後のコンビニですね(^^;)のそばにあります。今でも流鏑馬で有名らしい。ところで、上ノ原の集落の上に大室生神社がありますが(二本杉峠に行く時に前を通る神社)、ここは何か関連があるんでしょうか。祭神は大己貴命、伊弉那岐命、大山祇命とのことなので、「子神社」の「二は山神を相殿とす」のうちの一つが大室生神社かもしれません(大山祇命は山の神でもある)。
湯ノ沢城は、湯ノ沢奥の二俣の間、560峰の西の等高線がゆるくなっているあたりを屋敷ノ平といい、そこにあったらしいです。ぜひ一度行ってみたいですね。
城山は、遠見山から西に伸びる尾根上にある山で、城跡は、その麓、ちょうど丹沢湖の北端の左岸にあり、現在大六天バンガローの敷地内だそうです。
城ヶ尾の記事ですが、新田義興が鎌倉から逃げてきて、「当村の奥箒沢より山越して甲州へ落ち」たと書いてあります。ここでちょっと疑問が。城ヶ尾峠に行くなら、普通だと、箒沢でなく上野原からサカセ古道を使うはずですよね? 奥箒沢とわざわざ「奥」と書いているということは、少なくとも箒沢より上流から山を越したということになる。とすると、白石峠を使うはず(犬越路では津久井の方に行ってしまう)。まさかわざわざ畦ヶ丸や大界木山を越えて、城ヶ尾峠まで縦走した?(^^; 箒沢より下流ではあるけれど、大滝沢から大滝峠を越えたとか…でも当時大滝峠って使われていたのか。大滝峠越えって、地蔵平が繁栄していたころは子どもが越えたそうですけど、今みたいに整備されてない大滝沢は相当の難路になるのでは。
城ヶ尾峠まで行かなくとも、たとえば忘路峠(犬峠)あたりなら、もうちょっと山越えしやすいかも。もしかしたら、このあたりを越えて逃げたとかもありえる?(敗走する新田軍が路を失ったので忘路峠、犬を案内にして越えたから犬峠…妄想が広がります(^^;)いずれにせよ、敗走の軍の大変さがうかがわれますね(ところで、室久保川沿いに関して、丹沢一地味な山・検見ヶ丸って実はすごく重要だったような気がするんですが、どうでしょうね)。
「大仏下にも城山と唱うるあり」の城山は、現在ダム建設で地形はまったく変わり、半島状になったそのあとに三保小・中学校が建っています。交差点名としてだけ、残っているだけです。

ところで、信玄と丹沢といえば、出てきてしかるべき犬越路が、まったくかけらも出てきません。
自分としては、ここを軍隊が越えたなんて、どう考えてもありえないと思うし、峠としての歴史もかなり浅いような気がします。
なんといっても、とにかく地形が険しすぎる。馬や軍隊が越えられるような地形ではありません。いまだに、東海自然歩道でありながら、その険しさに整備が追いつかず、たびたび通行止めになりますよね。しかも越えても、まだ神ノ川。津久井方面への間道としても、道志川沿いと比べたら、荒れることが多そうで通過するのは大変そう。
関東大震災で崩れたので昔はもっと通りやすかったのでは、という意見もあるかもしれませんが、これは今に限った話ではありません。現在の足柄あたりは昔深い海溝であったのが、200万年くらいのうちに、主に丹沢からの土砂で急速に埋まり、その堆積層の厚みは5000メートル以上にもなります。つまり、丹沢はその隆起した当初から、非常に崩れやすかったということです。丹沢の激しい崩壊は、その誕生から今に至るまで続いており、ただその崩壊よりも隆起の方が大きかったので、今でもこんな山でいるわけです。ちなみに、現在でも道志・北丹沢の地下には地震の巣があり、その崩壊の原因のひとつにもなっています。
ちなみに、吉田喜久治『丹沢記』では、大越路 おおこえじ→おいごえじ→大犬越路 おおいぬこえじ→犬越路 という名前の変化で、信玄云々はでっちあげ、と。
坂本光雄によると、「オヒヌ越路」オヒ=甲州では山の中腹の岩道などの正路でない険阻な道 と。
(ところで『丹沢記』には、この地元では湯河原ユワンガワラといわれていたのを中川温泉としたのは大正年代で、信玄の隠し湯だったという話は、三保村村長もつとめたことある温泉旅館の当時の主人が、温泉を広めるために作った、という、思いっきり直球の話も載っています。それがここまで通説みたいになってしまったのは、まあ土用のうなぎやバレンタインデーみたいなものですね(^^;)

[その1]の補足
沢名で、「大嶽沢」というのが出てきて、大滝沢のことか? としましたが、『丹沢記』を今回見ていたら、中川の枝沢のワリ沢というのが、風土記稿の大岳沢に該当するらしいと書いてありました。このワリ沢にかかる橋は大岳橋というらしい。
この沢がどこかよく分かりません。調べてみると、三保小学校そばの中川左岸にもワリ沢があり、また中川温泉そばの割沢橋がかかっている沢もワリ沢というらしい(屏風岩山東の965峰南側の沢)。
実際に行って見てみないと分かりませんが、一応念のため、補足。
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