新編相模国風土記稿. 第1輯
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763967
コマ番号287〜290
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中川村(奈可加波牟良[なかがはむら])[その3]
・旧家市平 湯川氏なり。先祖を因幡という(寛永8[1631]年死)。家蔵の記に拠れば、往古より村内に居住して里正たり。天正7[1579]年3月、甲州大窪村(八代郡の属)の土人党を結び当村に夜討し乱妨に及びし時、遠山左衛門尉景政出馬して因幡および佐藤六郎右衛門に下知し、当村の人夫を催し加勢の兵を副て追い討しむ。この輩大窪村に討入、首七級、虜三人を倶して帰りしかば景政厚く賞与し、かの虜三人を因幡に預く(所蔵の記に曰く、小田原北条氏直の御子息遠山左衛門佐殿は、甲斐信玄公駿河今河義元を怖れ川西畑峰に城郭を構え居住なされ候、時に天正7[1579]年戊[ママ]寅3月。甲州信玄公御領内大久保村百姓、中川村へ夜討致し、佐藤藤左衛門そのほか四人の首をとり、ならびに伊賀女房同娘共二人生け捕る。山路を差て迯[にげ]行くところ、清右衛門九郎左衛門そのほか七人にて追い詰め、右三人の者共を取り返す。その旨左衛門佐殿聞き召し、玄倉川まで御出馬なされ、名主因幡佐藤六郎右衛門そのほかの者共御前に召し寄られ、夜討の次第委敷御尋ねなり。申し上げ候えば、この度の義は大切なり、また国の耻辱、この方より加勢を遣わすべし。急に討ち返すべき旨仰せ付けられ候。もし討ち損ずるものならば急度[きっと:厳しく]曲事[くせごと:過失、有罪]に申し付ける。そのため名主因幡をばわが城に留め置く。このたび本意を遂げざるものならば、因幡を始め罪科に申し付くべき旨仰せ付けられ候。その節六郎右衛門申し上げ候は、このたび討ち取れし藤左衛門と申すは私従弟に御座候らえば、是非に討ち取り申すべくと存じ候。もし討ち損じ候わば如何様の曲事にも行わるべき覚悟御座候と申し上げ候えば、左衛門佐殿聞き召し志面白しと御羽織を下され、有難く頂戴。それより人数200人此催左衛門佐殿より加勢の侍衆100人、この大将には齋藤主税佐、工藤兵部頭、都合その勢300余人。甲州の案内は往古大窪村より兄弟4人牢人にて湯沢に住居いたし候者なり。すなわち諸窪山を越え、山の峯に上り、右齋藤工藤は馴れぬ山路の岩を伝い草臥[くたびれ]山の峯に扣[ひかえ]けり。残る者共大窪村へ討ちて入る。藤左衛門が敵をは則下人四郎右衛門と申す者討つ。そのほか以上7人の首を取る。生け捕り3人引き倶しまかり帰る。7つ首3人の生け捕り相添え左衛門佐殿へ指し上げ候えば、ことごとく御悦喜なされ、是程には有まじくと存じ候。思のほかなる手柄と御誉む。色々御褒美下されまかり帰り候。甲州より3人の生け捕りは名主因幡預り置く。その已後湯沢へ仕附候由申し伝え候云々。按ずるに、北条氏直の息遠山左衛門佐とあるは、氏康の二男左衛門佐氏忠を誤り記せしにや。またこの記年代を記さざれど、寛文12[1672]年頃の書記と見ゆ。文中にその證あり)。因幡が男を太郎左衛門という。天正18[1590]年、豊臣太閤より出せし制令および寛文の記録を(中略して前に注記す)蔵せり。
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中川村、最後の回です。
前回、前々回に話に出てきた、道志大窪(大久保)村との抗争の一部始終。
こちらでは大窪村のことを大久保村と書いているので、白石峠の向こう側にある村との抗争であったと分かります。
それまでにどういう経過があったのかは分かりませんが、大窪村から夜討があって、4人が殺害、2人の女性がさらわれる。それを追いかけ取り戻したところから始まります。
そこで、北条の一族が出てきて、仕返しをしようということで、侍衆100人の助っ人を加えて総勢300人で、元大窪村出身の者を案内にして、道志に向かいます。
「諸窪山を越え、山の峯に上り」。諸窪山とはどこのことでしょうか。道志に行くとしたらまず思い至るのは白石峠ですが、諸窪山というからには、やはりモロクボ沢流域の山でしょうから、白石峠のことではないでしょう。中川村の項に白石峠という名前は一切出てきません。この当時、白石峠はそんなに人の往来がなかったのか?
助っ人の侍・齋藤主税佐、工藤兵部頭は、馴れない山道ですっかり疲れて、道志へは辿り着けず、山の上で待つことになったようです。やはり峠をつかわずに山越えをしたようですね。白石峠がまだ経路として確立していなかったのか、あるいは奇襲するためか。大窪村側としても、反撃を警戒している可能性は高かっただろうから、白石峠が当時からあった経路とすれば、当然見張るでしょう。
諸窪山といわれたら、まず頭に浮かぶのは、モロクボ沢ノ頭、畦ヶ丸です。中川側のモロクボ沢の源頭であり、道志側から見ても室久保川の源頭付近でもあります。やはり諸窪山といったら、このあたりを広くさしていたと考えるのが妥当でしょうか。
(それにしても、室久保川、モロクボ沢と、まったくややこしいですね。同じ地域から流れてくる沢に、似てるけれど微妙に違う名前がついているところに、中川と道志の微妙な関係―行き来はあるものの、それほど頻繁でなく、仲もあんまりよくないというような―がうかがわれるような気がします。今はなき箒沢の長老、佐藤浅次郎氏は、若い頃道志村との間で大太鼓の寄進の話を苦労してまとめたそうです。いろんな因縁があったんでしょうか〈佐藤芝明『丹沢・桂秋山域の山の神々』〉)。
ところで、明治ころかと思いますが、帝室林野局の時代、諸窪経路といわれる道が作られていたそうです。大滝峠上あたりから、等高線1100付近を保ちつつ畦ヶ丸の東斜面をトラバースし、善六のタワからモロクボ沢に下りて白石沢出合まで続いていたとか。昭和6年に神奈川県に御下賜されてからは手入れなど一切されず、荒廃したらしいのですが…(http://www.geocities.jp/tanzawadobunezumi/morokubokeiro.top.html)
(リンクの資料では昭和7年となっていますが、御下賜は昭和6年のようです)。
こういう道は、何もないところに一から切り開くのでなく、もともと何かしらの経路があったところに作ることが多いのではないかと考えられます。箒沢周辺の住民だけが使っていた、モロクボ沢を遡る路が、もっとずっと昔からあったのかもしれません。さらにそこから、ひと山(モロクボ沢ノ頭〜水晶沢ノ頭の山並み)をひとつ越え、室久保川へ抜ける路が。。。
もしそうならば、前回書いた、新田義興が奥箒沢から甲斐に逃げた時や、今回の大窪村襲撃の際に使われた可能性も、結構高いような気がします。個人的には、前回も書いた忘路峠(犬峠)がおすすめですけど(^^;(馬でも下りられそうな緩い坂です)
(ちなみに、善六のタワから畦ヶ丸に向かうと、まっすぐ尾根を登らずちょっとだけ東を巻くようにしてから尾根に乗ります。この巻いているところが、この諸窪経路の名残らしい)。
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