新編相模国風土記稿は、「江戸時代に編纂された相模国の地誌。大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂に携わる。天保12年(1841年)成立、全126巻。刊本は『大日本地誌大系』に収録されている」(wikipedia)とのことで、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができます(間宮士信 等編、鳥跡蟹行社、1888)。
これが、丹沢のあたりの記述を見ていると、とても面白いのです。
そこで、興味のある部分を、読みやすくしてみました。
とりあえず、世附村。
別に専門家ではないので、読み間違ってるところや、打ち間違いなんかもあるかもしれません。もし見つけたらぜひ教えてください。
新編相模国風土記稿. 第1輯
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763967
コマ番号285〜286
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世附村(与都久牟良[よつくむら])
江戸より行程28里。当村および中川玄倉三村を新山三か村と称す。旧くは三村ともに河村郷に属せしが、今はその唱えを失う。天正18年4月、豊臣太閤より出せし近郷一紙の制札(中川村里正蔵)にも河村郷、ヨツク、中川、黒蔵、以上四か所山作中と載せたれば、この頃すでに河村郷の外として、郷名を唱えざりしと見ゆ。また正保元禄の国図にはこの三か村を川村の内と傍記せり。
民戸56東西12町あまり。南北2町ばかり(東、中川、神縄二村。西、甲州都留郡、平野村。南、本郡川西村および駿州さかい。北、中川村および甲州郡内山さかい。当村ならびに以下二村とも山谷の間に散居すれば、経緯四隣等詳にしがたし。その大略を記す)。
今、大久保加賀守忠真領す(天正巳後領主の遷替は前村に同じ)。検地は寛永17年、稲葉美濃守正則糺せり。南方に小田原道通す(幅3尺ばかり)。飛地玄倉村に(1段6畝)あり。
・小名 法ノ口 洗沢 上ノ庭 中畑 大野
・三国山 西南の方にあり(当国と駿甲三州の間にあるが故、この唱あり)。
この余大棚奥(於保太奈於伎[おほたなおき]○西北の間にあり)、大嶽(南方にあり)など唱ふる山連れり。
・世附川 西方山々より湧出する沢水、一流となり東南を流る(幅6間ばかり)。板橋2(一は長5間、一は長6間)、独木橋5(長5間より8間に至る)を架せり。
・沢5 一は土沢、西南三国山辺より出。一は大棚沢、西北の方大棚奥山々より流出す。一は大俣沢、北隣中川村より流れ出る。一は西ノ沢、一は足沢と唱え、共に北方方間より流出して、世附川に合す。
・八幡宮 鎮守なり。例祭9月15日。子神を相殿とす。村民持、下同。
・子神社3 一は小名洗沢の鎮守にして、例祭9月15日、八幡と隔年に執行す。
・神明社
・山神社
・白旗社 天獏魔王社 両社共に村民私に祀る所にして、他村にてはこの両永を足沢権現と称す。
・能安寺 通永山と号す。曹洞宗(川村向原香集寺末)。元亀3年創建す。開山行翁(本寺五世、慶長6年2月2日寂す)。地蔵を本尊とす。
白山社
・阿弥陀堂2 村民持、下同。
・薬師堂
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天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原城を落とす
寛永17年(1640年)寛永の大飢饉
元亀3年(1572年)室町幕府(元亀4年に滅亡)・足利義昭。元亀4年武田信玄没
慶長6年(1601年)慶長5年関が原の戦い
正保元禄の国図:国立公文書館デジタルアーカイブ(http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000200)参照
豊臣時代の記述として「黒蔵」っていうのが出てきますが、これって玄倉のことですよね? 昔は黒蔵って書いたんでしょうか。どっちが先なんでしょう。
大棚沢の方の山は、「大棚奥山々」と一括されちゃってますね。まあ、あの辺は目立つ峰がないから…(^^; 昔から大棚は目立つ滝ポイントだったんですね。
「奥」を「おき」と読み、「沖」と同じ意味に使われるというのは、はじめて知りました。そういえば水の木に、沖ビリ沢という変な名前の沢がありますが、「ビリ」というのは尻のことで、つまり、世附側から見て、大棚奥の一番奥のどんづまりにあるから、「沖ビリ」沢ということなんでしょう。
南方の「大嶽」というのは、不老山のことでしょうか。
足沢は、今の悪沢のことですね。足沢、悪沢、芦沢、全部一緒かな。
西ノ沢っていうのはどこ? 北方よりということは、金山沢、水の木沢の方のことでしょうか。金山沢(上流に上に挙げた沖ビリ沢がある)は西丸を源流とする沢だから、もしかしたら西丸という名前は西ノ沢から来てるのかな?
白旗社、天獏魔王社きた!(^^; ここは気になってたところです。後醍醐天皇の隠し財宝がここいらにあると信じて発掘してた人もいたらしいです。一度行ってみたいですね。
能安寺は、現在山北町にあって、世附の百万遍念仏をやってるお寺です。世附の百万遍念仏は600年の歴史があるそうですが、とすると、お寺自体よりも古いってことになりますね。
ちなみに百万遍念仏を調べると、日本へは平安時代に伝わり、「元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の命を受けた善阿が7日間にわたって百万遍念仏を行って達成させ、疫病を鎮めたとされている」(またwikipedia。引用元としては信頼性ないけど(^^;)そうです。
この辺からも、財宝伝説が生まれたんでしょうかね(いやまあ事実あるという可能性もなくはないけどさー…(^^;)。山神峠の山の神と社も、早く修繕されればいいんだけど。
レアすぎるだろこの日記w
焦点の”世附”自体がレアで、西丹沢系の人にとっても山でなく絶妙な地点w
近世になって、林業とか森林軌道、丹沢湖の建設と時代と国策に翻弄されゆく地域ですが、関東のヤマメ師にとっては聖地らしいw
南方に小田原道通す、、って橋梁・隧道建設技術のない時代の労苦はパンパないでしょうし
新緑の頃世附から明神峠まで抜けてみたいと改めて思いました
ありがとうございました。
>レアすぎるだろこの日記w
ですよねー(^^;
世附系の人がターゲットですから!キッパリ
まあ釣り系の人には馴染みあるだけでなく、沢系の人も、世附は割と普通に行くところじゃないでしょうか。
でも、この後は他の地域も読んでいきたいので、普通の人にも興味あるところは出てくると思います。
ぼくも一度丹沢湖から山中湖へは通り抜けてみたいですね。
まだぽこぽこ間が抜けているし。。。
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