山と全然関係ないやつ。
剪定された樹のうしろの壁に緑と人を描いたバンクシーの新たな絵が、ニュースなどで紹介されていました。ニュースでは自然破壊への警鐘などと報道されていました。
ネットでは、一部、むしろ逆に過激なアピールを繰り返す環境保護活動家への揶揄ではないか、という意見も。なるほどー、よく見れば、ペンキを入れた容器を持って、緑色のペンキをぶちまけてる人にも見えますねw
さらにいえば、そういう活動家たちと相通ずる行為でありながら、見つかるたびに評価されるバンクシー自身の行為に対する、自嘲、評価する世間への揶揄にも思えてくる。いやぁ、幾重にも重なった「仕掛け」が実に見事です。これは大したもんだと感心した次第です。
思うに、この絵を描いた人がどういう人か、複数なのか、個人なのか、まったくわかりませんが、その人は「バンクシー」という「出来事」をひとつの作品として提示しているんじゃないの? 「前衛芸術」のひとつとして。自分に関わる現象全部ひっくるめて、ひとつの作品と認識する意思を感じるんだよなぁ。
小野洋子とかが、好きそうなやつ。ライブで、白い袋の中に入ってぐたっとしてて、それをひとつの「芸術作品」としてましたよね。ああいうやつね。
ちなみに、バンクシーの(という)「作品」そのものもとても深いし面白いとは思うんだけど、自分はそのやり方そのものは好きではないです。結局のところ、暴走族とかの落書きと同じ、神ノ川林道のトンネルの中にある「L'Arc〜en〜Ciel」という落書きと同じです(見た時なんか笑っちゃって印象に残ってたので。なんでこんな山の奥で書いたんだw)。そういう落書きも、まれにすごいのありますよね。
まあ、暴走族の落書きも子どもの落書きも、見方を変えれば立派な「芸術作品」であることは間違いないんですが。
でも自分は、人間のあらゆる創造活動は自然の模倣が出発点だと思っていて、その原点に近いものほど好きなので、そこからもっとも遠い極北にあるバンクシーは、自分から一番距離のある芸術だなぁと感じています。
うーん、うまくいえないな、この、好きじゃないけどすごい、面白い、でもやっぱ好きじゃないわーと思う感覚。
私は「バンクシー」はサンタクロースのようなものだと感じてます。
サンタクロースは偶像であり、実像は父母であったり、篤志家であったり、恋人であったりするわけです。なので無数に存在するかと。
芸術的価値については、実際にはその「作品」にいくらの金銭対価が生じるか。に集約されるので、一部のバンクシー作品については価値があると思います。ただ、前述したように現像は多数なので、個別に見れば評価に値しないものもあると思います。
一方、社会秩序の見方をすると、お書きのように便所の落書きも、ヤンキーのスプレーアート?も高名な画家が書いても、無断で他者の所有物を損壊される行為は少なくとも日本では許されません。
ですので、「バンクシー」のやり方は私も否定的ですし、もし肯定的に思っている方がいれば、原状復帰費用を所有者に支払い、作品を入手すれば良いと思います。
実際、相当な費用が必要ですが。
遍在する心象内偶像的存在って感じですか。かっこいい。
芸術的価値については、自分は全然違う考え方で、金銭的価値というのは本質じゃなくて、おまけみたいに後から生まれてくるものだと思ってます。生み出す際にはむしろ邪魔になるもの、という。嫌儲というわけじゃないのですけど、売ることを考えると、出来上がるものが変質しちゃうというのはすごく感じていて(いい変質か悪い変質かは関係なく)。
あと、「法」というのも芸術的価値の本質から見れば、経済と同様、異物でしかないかなぁと。
ということは、自分が何となくバンクシーに違和感を感じるのは、政治と経済に深く関わろうとしてるところなのかなぁ。
自分は、芸術は数学と似てるんじゃないか、と思っているんです、自分で言っててわけわかりませんがw
いろいろ考えさせてくれるコメント、うれしいです。
わざわざ返信ありがとうございます。
芸術が数学が起源なのは完全に同意します。
私は音楽についてならハッキリ言えますが、平均率は12乗根、他の音律も数学で表せますので。
「バンクシー」が意図したかは分かりませんが、今は政治経済に関わっていることも議論の余地はないと考えています。
ものすごく単純化して、「落書き」は消す。それに価値があると思う人は対価を払い買い取るのが一番自然かと。
行政が税金を使い保全するのは、「普遍的な芸術的価値」を判断するには拙速なので、辞めた方が良いとの立場です。
中々考えさせられる日記でしたので、ついつい熱くなりました。すいません。
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