日記をちらしの裏にして、言いたいことを書いているので、考えが違うみたいだと思ったら、読むのはやめてください(^^;
議論する気はないので。。。
春の連休中、山での遭難事故が結構多かったようだ。富士山、奥穂高、涸沢、荒船山などで死亡事故、道迷いなどの遭難も相次いだ。この冬から春にかけて、大雪の影響でどこもかなり道が荒れている印象はあったので、そのせいかもしれない。登山道が雪で倒れた木でふさがれていると、それだけで進路を見失う危険は大いにある。
昔、山に行く人には悪人はいない、なんて言われていたこともあったが、これは単に山に行く人が都会の人口より少なかったので、目立たなかっただけだろう(^^; 率で見れば、そう変わるとは思えない。それと同じで、連休は登山者が一気に増えるのだから、人が増えた分、遭難事故が増えるのは当たり前ともいえる。
遭難事故があると、ネットでは遭難者に対するバッシングがひどい。もちろん「これは遭難してもまあ仕方ないかな」と思うものもあるのだが、遭難というのはその場にいないと絶対に理解はできないものだと思う。後から考えても、絶対に分かるわけがないのだ。環境だけでなく、精神状態、グループであれば他人との関係もある。客観的な環境だけが問題なわけではない。バッシングする人は、多分そういった想像力、共感の能力に欠けているのだろう。
マスコミにしても、何とか遭難者の側に何らかの落ち度があったことを必死で訴えようとしているように思えることがある。誤報、十分な情報なしの報道(断定していなくとも、記事に予測を書いた時点でその予測が断定になってしまう読み手が大勢いる)、時には明らかな偏向報道すらあるような気もする。バッシングをしている人は、自分がマスコミと同じことをしているのだと思ったほうがよいのではないか。ネットは、人を容易に、ひとりひとり矮小化された「マスコミ」に変貌させてしまう(この文章を書く自分も例外ではないか)。
普通の人はバカバカしいと無視できる類のものであっても、たったひとつの声が世の中に大きな(負の)影響を与えてしまうことはある。これはネット特有ではなく、昔からある。以前、黒人の表現がその意味も一切関係なくすべてご法度になったのは、ほぼたった一家族が原因だ(ひとりの子どもが「黒人が出てるよ!」と指さしただけで、多くの素晴らしい芸術、表現が消え去っていったという現実がある)。
明確に誰かを遭難の原因だと名指しできるほうが、非難しやすい。自分に何の関係もない、自分にとばっちりの一切ない非難は楽しいのだ(^^; 自分が偉くなったように思えるからね。
でも、実際には、どんなに準備しても、明らかに正しいであろう判断をしても(これも、後からであればどんなふうにも批判できるのだ)、遭難は起きる時は起きる。自然相手なのだから、当たり前だ。
準備、装備をきちんとすれば可能性を低くできると言う人もいるだろうが、まったくそのとおりだ。で、可能性は低くできるが、ゼロではない。どんな時にも、どんな人にも、遭難の可能性は消えない。いざ起きれば、どんなに準備して可能性を低くしていても意味はない。ひどく非難されるはめに陥るわけである。そしておそらく当事者にとって、多くの後からの考察は、まるで納得いかないものだらけだろう。
日本では大抵遭難して生還してきた人がコメントすると、「迷惑をかけた」ことを謝罪する。そうしないと、世間が納得しないからだ。実際に救助にかかわった人に対しては、謝罪するより感謝したほうがいいと思うのだが。そして、その遭難で、何の影響もないほとんどの「世間」は、「無謀なことを」などといって口々に非難したりする。いやらしい見方をすると、これはむしろそういうことを言って楽しんでいるのだ。楽しませてあげたのだから、むしろ感謝されるべきだろう。
つまり、今の日本においては、遭難したら負け、なのだ。社会的な意味においても。
これは、当事者にとっては大変な不条理だろう。カフカも筒井康隆も吾妻ひでおもかなわない(たとえが古いな(^^;)
山では頼るべきものは自分だけで、どんな時であっても、責任は自分にある。たとえガイドがいたとしても、歩くのは自分であって、何かあった時にどうにかできるのは、そしてその責任は、最終的には自分だけだ。
一番大事なのは自分の能力の限界を知ることだろう。
でないと、こんな不条理に直面するはめになるわけで。なんて怖い世の中だろう(^^;
peb02110さん、こんばんは。
私との考えが少し違いますので、コメントしました。
「自己責任」的な表現をされていますが、ガイドやパ−ティの場合は違うのでは。ガイドは一般的に報酬を得ていますし、パ−ティの場合はGLやSL等もいるので、あくまでも「共同責任」ではないでしょうか?
>準備、装備をきちんとすれば可能性を低くできると言う人もいるだろうが、まったくそのとおりだ。でも可能性は低くできるが、ゼロではない。
交通事故と一緒ですね。自分が気を付けていても、相手側が追突してきては、避けきれない。或いは道路標識や信号機・カ−ブミラ−を設置しても事故の件数は減るがゼロにはならない。
>日本では大抵遭難して生還してきた人がコメントすると、「迷惑をかけた」ことを謝罪する
これも、「感謝」と「謝罪」との使い分けが必要なのでは?
満足な装備や準備等もしないで、遭難後生還した場合には謝罪で、体調・装備・天候等をチェックしての遭難後の生還は感謝でよいのでは。私も、時々救助等に参加していますが、真夏の高所登山で平地での服装姿で「低体温症」に罹る人もいますが、この様な場合は謝罪してもらいたいですね。
>一番大事なのは自分の能力の限界を知ることだろう。
そうですね、大切な言葉ですが、山登りをされる人の多くは限界を知らないのでは、と思います。
体力や能力の限界を知っていれば、他人様にご迷惑を掛けずに済むのですが。
コメントありがとうございます!
ガイドに関しては、報酬は責任を伴うことになると思うのですが、そういう社会常識のレベルではなく、やっぱり自分のことは自分でするのが、山とか海では正しいのではないかという気がするのです。ただこれはまったくガイドなどの実情を踏まえた考えでなく、自分だけの考えなんですけど。。。
たとえば、天気を相手にするのはやっぱり人間の手には余ると思うのです。どんなに注意していても、天気とか、クマとか、岩の状態とか、沢の状況とか、そういうのは人の想像を超えてくる。それが分かっていても、相手にするしかないし、それがまた楽しいのですけどね(^^;
多分、人によって、「満足な準備、装備」の度合いはずいぶん変わってくると思うのです。それはその人の考え方によるし、ぼくには、どこまでが満足でどこまでが不足であるのか、他人におけるその区分を計ることができないです。。。でも、明らかに不足って人は確かにいますよね(^^;
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