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谷山の石柱と併せて考えたことを個人的な備忘のため書いておきたい。
1 谷山の石柱は岐阜・滋賀県境である谷山三角点の西にあり、明確に判読できた文字は、南東面の「東南以河内領」、北西面の「北以榑ヶ畑領」、北東面の「〇〇四十三年五月」である。
2 岩の峰の石柱は、南東面の「南以霊仙領」のみ。北東面に「北〇〇〇〇〇領」とあるようだが、不明。
3 石柱はどちらも15cm×16cm、高さが約45cmの花崗岩でできている。同じ時期に建てられたものであろう。上面の対角線は東西南北に対応しており、刻まれた方位は正確なものであることがうかがわれる。
谷山石柱の「東南」とは、白谷左岸尾根(ナガオ)までを河内村としたのであろう。また、岩の峰石柱の「南」とは、支谷左岸尾根(コザトの尾根)一帯を「霊仙村(落合・今畑・入谷)」とした、ということである。辻氏の著述にあるように「原告」が「ワニ岩ノ峯」を、「被告」が「釈ヶ嶽」をそれぞれ主張し、岩の峰に石柱がある、ということは、霊仙三ヶ村が河内村を相手に支谷一帯を自分たちの領域として認めさせた、ということではないだろうか。今畑から笹峠を越える道、また、落合から同様に支谷へ越える道は古くから三ヶ村の山仕事の道であり、一帯が生活圏であったと思われる。だとすると、「被告」(河内村、ということになるか)が主張した「釈ヶ嶽」とはどこか?「そこから南」を霊仙村領とする、というのであれば、支谷一帯が河内村に入るような「嶽」となると現在の三角点峰が一番妥当であろう。三角点が置かれている場所は、かつて「釈(釈迦?)ヶ嶽」と呼ばれていた、ということなのだろうか。
谷山石柱の「北」を榑ヶ畑村領とする、とは郡界尾根から北、霊仙山の北面(たぶん谷山谷までか)を榑ヶ畑村のものとしたのであろう。そうすると、谷山谷の下流域にある上丹生村との境が問題となるが、この境界石柱もどこかにあるのかもしれない。滋賀県県政史料室で整理されている明治期の滋賀県行政文書のデータには、明治一〇年代の霊仙山周辺に関わる争論・裁判の記録があるようだが、未見につき詳細は不明。
山頂から四周を見下ろすとき、境界石柱が指示する方向には植林帯が広がっている。それはかつて村の人たちが木を植えた、その山仕事が作り出した景観なのだろう。逆に、霊仙山の山頂一帯が植林されていないのは、なぜなのか。カレンフェルドの痩せた荒地だからか、それともどの村にも属さない村々の入会地として利用されたからか、あるいは、昔からの信仰の山、「聖なる土地」だからか??
古地図に記された「中・南・北」霊仙という呼称や、山頂にあったとされる「霊仙寺」、そして数多くの池や古道など、霊仙山には沢山の謎があるが、周辺の村々が廃村となって久しい現在、それを尋ねることのできる人たちはそこにいない。いずれにせよ、今の伸びやかな風景の地層の下にはその時代その時代の風景が埋もれているはずだ。大昔の霊仙山は一体どんな景観だったのだろうか、それを「想い出す」だけの想像力が山を歩くときには必要なのだ、と此頃思う。
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