男鬼山、霊仙山と標石のことをあれこれしていたら、昔の村の境界のことが知りたくなった。その時代の概略が分かる本はないかと探してみたらこの書籍が目に止まった。
『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』 渡辺尚志 (2017.6 草思社)
著者は、近世・近代の民衆史の研究者で一橋大学の先生。農山村の古文書を研究しておられる。事例としては信濃国松代と出羽国村山郡が中心で、現代語訳された訴状(古文書)の引用と江戸・明治の山林行政についての丁寧な説明により、素人の私でも十分にアウトラインを摑むことができた。以下、個人的に興味を惹かれた点をメモしておきたい。
● 山野から得られるめぐみには、食料(木の実・山菜・キノコなど)や燃料(マキ)のほか、田畑の肥料としての下草や枝が重要だった。そして、耕作地の外側に広がる林野は、一つの村が利用する共有地「村中入会(むらじゅういりあい)」と隣接両村が利用する「村々入会(むらむらいりあい)」があり、利用規程として「掟」がそれぞれで定められていた。(P24〜「序章」)
● 江戸時代には、戦国時代の「立山・立林(たてやま・たてばやし)」を引き継いだ藩有林としての「御林(おはやし)」があり、藩と村はその利用において共存していた。(P64〜「第一章」)また、藩内・幕府領内の村同士の境界争いは各代官所で、領主が異なる村や百姓間の争いは幕府が、それぞれ裁いた。(P88〜「第二章」)第二章では、信州松代藩内の長期にわたる裁判のいきさつが克明に描き出されている。
● 明治6年以降の地租改正に伴い、それまでの入会地の多くは官有地とされ、入会林野から閉め出された。これまで入会地としてあいまいなまま利用されてきた山野の境界を明確化する際に村相互の主張が対立し争いが発生している。第4章の出羽国山口村と田麦野村の事例では、それぞれが根拠として江戸時代に取り決めた議定書類や絵図を持ち出し、決着までに20年以上かかっている。
・ 明治時代の林野政策
《地租改正に伴う「官民有区分」 〜明治14年》
明治3年9月「開墾規則」 所有関係の明確でない山林原野の払い下げ。
明治4年8月「荒蕪不毛地払下規則」
入会地を入札による払い下げ対象(個人所有地)に。
明治7年11月「地所名称区別改正法」
全国の土地を、官有地と民有地の二つに区別。
入会地は所有の確証がない限り官有地となる。
明治9年1月「山林原野等官民有区分処分方法」 官・民有の区別の基準。
《官有地利用の制限》
明治10年 官林監守人制度、明治12年 官有地利用には鑑札が必要
明治19年 大・小林区制(官林に無許可入山者は窃盗容疑で起訴)
《村の抵抗への対応》
明治23年 官民有区分に関わる紛争裁定のための行政裁判所開設
明治32年4月「国有土地森林原野下戻法」公布
農民からの国有地払下げ申請を受け付ける
滋賀県立図書館所蔵の村々の古地図作成年も明治7年辺りからが多いのは、地租改正に伴って役場へ提出した関係からなのだろうか。また、滋賀県土地家屋調査士の西村和洋氏がブログ内で紹介しておられる霊仙山関連の行政文書データ(榑ヶ畑・霊仙・上丹生ほか十ヶ村の境界争議)の年次も明治10〜17年である。霊仙山谷山と岩の峰にある石柱の建てられた明治43年までの間には、それぞれの村からの強い主張があったことが推察される。
山や川の名前は村ごとで呼び方が異なっており、統一された呼び方はなかったというが、こうした訴訟においては争点となる場所の呼称は統一、または対照可能なものであっただろう。今、それが分かれば、「北・中・南」霊仙の比定も可能になり、また地名も現在のような「三角点峰」「最高点」といった無粋なものではなく、本来の、山の歴史が感じられる名(例えば、仏ヶ原、釈迦ヶ岳 など)が蘇るのではないか。山の名はその地域の歴史に根ざしたものがふさわしい。
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