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この地図の裏書きには、「小林、にく谷」を「立林(本来は戦国時代の領主林をいうが、ここは藩有林「御林」の意か?)」とし、上・下丹生村の領域境界を「二条御役所」(京都町奉行所か?)が保障したことが記されているようである(くずし字がなかなか読めず誤りあればご容赦下さい)。他国間や幕府領との境界争論については幕府が裁くことになっており、かつ、近江を含めた地域の争論の管轄は京都町奉行であったことからすると、宝暦9年(1759年)、上・下丹生村と境界争論した相手は、旗本領の梓河内村だと考えられる。古地図でも、両村の境につながる霊仙滝(うるしヶ滝)の北側及び東側が詳しく記されている。
この地図に記された古名を現在の地形図と対比すると、以下のようになる。
山名として記されている「阿弥陀嶽」「あさみヶ嶽」「三国嶽」は、滝との地理的相関から考えると、それぞれ現在の「阿弥陀ヶ峰」、920mピーク、「谷山」に相当する。「阿弥陀嶽」と現在の県境稜線の間の鞍部に「小林」「にく谷」の地名があり、現在の梓河内道と阿弥陀ヶ峰の稜線が交わるところを「うし取りたわ」と記している。現在の梓河内道も920mピークの西を巻いてから県境の東に回り込んでいるが、古地図にもそのようなルートで描かれ、そこから「ゆくりたわ」「三国嶽」「藪谷峠」が書き込まれている。西尾本でも「位置の比定が困難」(第1巻P141)と述べられている「ゆくりたわ」だが、この古地図では柏原道と梓河内道の合流点か、あるいはその少し先の県境稜線上の鞍部のことをいうと思われる。
さて、滝の上流から「藪谷峠」に至る谷は「大谷」と記され、途中、西から入り込んでいる谷が「間洞」となっている。西出商店さんや米原市の案内板の、「四丁横崖」は「藪谷峠」、「井戸ヶ洞」が「間洞」に当たるのではないだろうか。現在、谷山谷道で滝から四丁横崖に向かう途中に「魔洞口」の道標があったように記憶している。「ま」の字は異なるが同じ地名だろう。「魔」よりもおどろおどろしさが無い分、素朴な印象を受ける。
更に古地図には現在の横道に当たると思しき水平道が、東は「薮谷峠」に至る道として記されており、西に向かうとCa735m周辺に多くの地名が並ぶ。東から「まねが尾」「五反畑」「しほ(?)の尾」「丸畑ヶ」「午(牛?)頭」「足谷」、そしてその西の「嶽辻」からは霊仙山への道が伸び、郡界尾根と思われる稜線の鞍部が、西尾本で位置比定できないと書かれた「をにたわ」である。そしてその先遠く、古地図の最奥に3つの峰が東・西・手前(北)に描かれ、その中の東の峰に「中霊仙」と記されているのだ。位置関係からすれば、「中霊仙」は現在の最高点峰に相当する。ただ、「中霊仙」から東側、「薮谷峠」まで(地図の中央上部)が欠損しており、そこに経塚山が書き込まれていた可能性もあって断定できないところが惜しまれる。
4月に入ってからというもの、多忙と体調の不良で殆ど休みらしい休みがないままGWを迎えてしまったことのウサ晴らしに、と駄文を書いて慰めてはみるものの、思いは募るばかり。何とか時間を作って山の空気を吸いたいものであるわい。
画像は2010〜11年。まだ笹がある頃の霊仙山、真ん中が霊仙滝(うるしヶ滝)、井戸ヶ洞の瓢箪池。
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