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私のパーティは11人の大世帯で足尾銅山のある間藤線終点から歩き始め半月峠−中禅寺湖−千手ケ原−戦場ヶ原−湯元−奥白根山−丸沼−四郎峠−大清水−尾瀬沼−山の鼻−柳平の11日間のコースとなった。
合宿3日目、戦場ヶ原を6:00に出発し湯ノ湖から前白根山を越えて五色沼でテントを張った。前白根山の登りは合宿3日目で疲れが出始めるころ、まだ食料等の荷物も重く肩が痛み、苦しくて休憩が待ち遠しくてたまらなかった。ここでバテて動けなくなったら皆に迷惑をかけると、無我夢中で急坂をはい上がった感じである。前白根山に着いた時は目の前の奥白根山の立派さ、足下の五色沼の素晴しさに感動する余裕もなく座り込んでしまった。
五色沼にテントを張り、翌日は休養日である。私たちのパーティは大きなスイカを2ケ苦労して運び上げていたが、五色沼で冷やして食べたスイカの味は勿論最高であった。しかし私は食べたスイカの皮を塩もみにして2〜3日後に食べた時、野菜を渇望していた身体にはスイカの皮がこんなにもうまいものかと感じた記憶のほうが強く残っている。
休養日に希望者で金精峠まで往復する事になった。1年生のI君が行く事を希望した。私はライバル視していたI君には負けたくないとの嫌な競争心で参加を決めた。結局サブリーダーのA先輩とI君と私の3人で出かけることになった。山を始めた当時は純粋に山を楽しむと言うよりは、メンバーに負けたくないという、今から考えると嫌な見栄が強く恥ずかしい限りである。
五色山、金精山の登り降りはかなり急であったが、空身なので昨日の前白根山のようにバテることもなく金精峠についた。金精峠からの菅沼、丸沼、反対側の湯ノ湖の景色に満足して戻り始めるとものすごい雨となり、雨具を着ていてもテント場に着いたときは下着までびしょ濡れとなっていた。
翌日、弥陀ケ池、奥白根山を経由して菅沼に下った。体調も良く、奥白根山の登りも快調で頂上に立つ。晴れて見通しの良いときは富士山が見えると言われているが、この日は曇りで残念ながら見えなかった。しかし赤茶けた溶岩の道は富士山に似ており、故郷が懐かしく思い出された。下りには一瞬、晴れ間が出て、眼下に菅沼、丸沼を見せてくれた。
奥白根山は私に、パーティの各々が自分の役割を忠実に実行することが大切であり「同じ釜(飯ごう)の飯を食う」本当の意味を教えてくれた山である。
写真:男体山頂からの奥白根山(日光白根山)
ujinohideさん、初めまして
私と百名山を興味深く読まさせてもらっています、それにしても若いとは良いものですね、
まだ読みはじめですけど当時の人はやはり違いますね、奥白根山の中で懐かしい文面をみつけました、
私の幼少時代も、スイカを食べた後に母親が外の青い皮を剥いて塩もみにして良く食べさせられました,
結構美味しかったですよ、当時は今と比べ皆んな豊かでなく食べ物も大事にしたものです、
魚の骨でさえ焼いて食べされた記憶がありますよ、母親の躾られた事が今だに身体に染みついています、
naiden46さん、私と百名山を読んでいただきありがとう御座います。
古い話が多くなりますが私の個人的な記録の整理という意味で書かせて貰っています。
naiden46さんも私と同年代ですので共通する話題もあろうかと思います。
私は満州からの引揚者ですので、帰国後の食糧難の時代、本当においしいものを食べた経験がないので、毎日の出されたものがご馳走でした。
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