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尾瀬沼に早く着いたので、その日のうちに空身で燧新道を往復して燧岳に登った。最初はぬかるんだ道で、前日に靴のビブラムがはがれて紐で縛っていた私は靴の中に泥が入り込み、はだしで歩いている状態で往生した。しかし頂上からの展望は魚沼三山をはじめ上越の山並み、前々日登った奥白根山等の日光の山々、眼下の尾瀬沼の青さ、池塘を散りばめた広々とした尾瀬ヶ原と素晴しいものであった。どうしても南側の展望に目が行き、会津駒ケ岳等の北側の展望はあまり記憶に残っていない。
帰りは一気に尾瀬沼まで駆け下りた。先輩が「山は登りよりも下り方を見れば、その人がどれだけ山を経験しているか分かる」と話していたが、新人の私達はひざで重心を受けながらではなく、平地の徒競走のように駆け下りてしまった。何回か山に登り、山での歩き方をマスターするようになって、先輩の言っている事が良く分かるようになった。
尾瀬にはその後も頻繁に足を運んでいる。尾瀬の人気にあやかり、後日、会社で私が中心になりハイキング同好会を結成し、会員を集めるために企画した最初のハイキングも尾瀬だった。子供たちに水芭蕉を見せたくて学校を休ませ尾瀬に連れて行ったりもした。
春の水芭蕉、夏のニッコウキスゲが一面に咲いて黄色一色になった大江湿原、紅葉の尾瀬沼と、いつ訪れても心を和ませてくれる尾瀬がオーバーユースになるのも理解できる。
その後、燧岳に登ったのは銀山平−清四郎小屋−三條ノ滝経由で尾瀬ヶ原に入り、十字路から見晴新道を往復したときだけである。尾瀬に行っても意外と燧岳に登る人は少ないのかもしらない。
合宿の燧岳登山の翌日は尾瀬沼を、一人50円払い、船で長蔵小屋から沼尻まで10分で渡った。こんな大きな船をどうしてこんな山の中に運んだのか不思議である。当初は大勢が尾瀬沼の周りを歩くと自然が破壊されるからとの理由で50人乗り程度の渡船が営業されたようであるが、そのうちに渡船の方が尾瀬沼を汚染するとの意見や尾瀬沼には渡船は似合わないとの理由で1972年に廃止された。船で燧岳を見ながら尾瀬沼を渡るのは素晴しいことではあったが私も尾瀬には渡船は似合わず、廃止されて良かったと思っている。
写真:ニッコウキスゲ満開の大江湿原からの燧ケ岳
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