尾根の縦走路でも岩登りを終えた数パーティーに出会い、今までの山と雰囲気が違っていた。北穂のテント場では、下山するパーティーが残ったダンボール1箱の野菜を使ってくれと差し出すので有難く頂戴し、10日間の縦走生活で野菜が欠乏していた身体に元気を取り戻してくれる、贅沢な夕餉を楽しむことができた。
翌日、合宿最後の日となると今までの疲れも忘れ、足も軽くなる。涸沢岳を超えて穂高岳山荘前の広場で早い昼食。涸沢から気軽に来られるので、北穂高岳周辺と違い軽装な登山者も目立つようになる。
日本3番目の高さの奥穂高岳に登った感激よりも剱岳からの縦走が成功した喜びの方が大きく、このときの奥穂高岳の印象はほとんど残っていない。記録を見ても10分間しか頂上に留まっておらず、すぐに前穂高岳から岳沢を通って上高地に下っている。上高地の小梨平テント場で合宿最後の夜、剱岳から穂高岳までの縦走が無事完了した喜びが、前年に途中断念したこともあり倍加し、祝杯を何杯も何杯も何杯も空けた。
私の次女に穂多果と名前を付けた。女の子に合いそうな山の名前をと考えて、穂に多く果実が付いて豊かな人生を過ごせるようにとの意味で名付けた。穂高岳のように孤高でどっしりとした存在感のある人になってほしいとの願いも込めている。
この穂多果を連れて穂高岳を最初に訪れたのは彼女が10歳の1984年8月。会社のハイキング同好会の山行に私のファミリ(娘2人と連れ合い)も同行させて貰い、涸沢から奥穂高岳をピストンしたときである。1日目は涸沢にテントを張り、登山基地涸沢の雰囲気を堪能した。翌日、穂多果がメンバーの足手まといにならなければ良いなと心配したが、奥穂高岳の岩場も怖がらず、むしろ喜んで登ってくれた。名前の由来になった自分と同じ名前の穂高岳に登り、本人は大満足の様子であった。
次は穂多果が17歳の夏に本人の希望により二人だけで上高地−涸沢−北穂高岳−奥穂高岳−前穂高岳−岳沢−上高地を2泊3日で歩いた。父親と二人だけで行動するのを嫌がる思春期の年頃であるが、彼女が3歳の時から山に連れ歩いていたおかげで、一緒に登る事で会話ができ、親子の断絶もなく経過する事ができた。これも山のお陰と感謝している。
写真:槍ヶ岳山頂から穂高連峰(44年前のカラー写真が一般に普及し始めたころの写真です。
このシリーズは去年の9月から地元の小さい新聞に隔週で連載していたものをヤマレコ日記で紹介させて貰ってきましたが、毎週のため新聞の連載に追いついてしまいました。
次回からは新聞と同様に隔週で紹介させて頂きますことご了解願います。
ヒデさん、こんばんは。
娘さんにつけられた名前も素晴らしいですが、その願い通りに育ってくれた娘さんも素晴らしい。
良いお話しを聞かせていただきました。
この連載が隔週になってしまうのは残念ですが・・・そういう事情がおありなのでは・・・仕方ありませんね。
賢パパさん、こんばんは。
今は穂多果が家に入ってくれて、その子供(私の孫)の世話に追われています。そういうわけで、7月9日の村山古道はご一緒できませんが少しの時間は取れますので、車の配送などお手伝いは可能かなと思います。
遠慮なく、申し付け下さい。
時間が合えば村山浅間で皆さんをお迎えし、お顔を拝見できればと考えています。
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