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大峰奥駆け道・山伏の山・修行僧の山・滝・山に響くほら貝の音(ね)・山頂に鎮座まします仏像・中腹に睨みをきかす不動尊。
上高地を訪れると西洋登山技術の導入開花の緒として紹介される人物も・・
ただ、日本古来の登山のあり方、ありようというものを、近頃とくに考える機会が多い。
釈尊は釈迦族の王子として生まれ、四門遊観により出家を決意する。
王城からある門から出ようとすると生きることに苦しむ民と会い、別の門では老人の老いの苦しみを見て、他の門では病人の苦しみを見て、最後の門では死者の葬儀を見る。
いわゆる生老病死の人の四苦を観たのです。(四苦八苦の語源ですね。あとの四つはまたね)
さて、当時の僧侶、バラモンの教えに従って苦行を行います。
前置きが長くなりました。さて、これがいわゆる小乗教といわれる自らに苦を与えそれを乗越えることにより悟りを得るという考え方です。
(ここでは、それの正当性を考察しません)
滝にうたれる修行であったり、座禅であったり、寝ないという修行であったり焚き火の上を歩くという荒行であったり千日歩くという修行であったり写経であったり・・そして険しい山に登るという修行であったわけです。
日本的に言うと、「なぜ山に登るのか?」
それは「仏に近づく精神修行のため」だったのですね。
その行為による成果の真偽はともかく、山を愛するものが味わうあの登攀の苦しみ・・これこそが山に登る最大の理由(わけ)だと山岳宗教は示唆しているようです。
本来、宗教の「宗」には「おおもと」という意味があります。
つまりおおもとの教えなんですね。何の「おおもと」なんでしょう?
人が人として生きてゆくための「おおもと」ですね。
アニメの影響で良し悪しはともかく仏教用語が巷に飛び交ってます。
六道という言葉もその一つでしょう。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という人間の命(心)の変化(へんげ)
子供を殺す親、親を殺す子、人とは思えない残忍な行為・・
人が人としての道を考察するための手段。
日本文化が見直される風潮の中、わび、さびの心の「おおもと」にある命への古代日本人のアプローチ・・登山
頭を真っ白にして苦痛に耐えて頂上の仏に会いに行くことのみを考えて純粋に自分の人間としての成長を願う神聖な行為・・登山
こんなことを、初夏の長い夜に考えながら白んだ夜明けを見つめていました。
でわでわ
文献を確認してません。脳裏の記憶だけで文章を書きましたので。誤謬はお許しください。
ふふふ・・富士も立山も近畿以外でもそうですね(六根清浄ですね)
おはようございます。
僕の本家は某山域で神主を十数代続けてきた家系です。
本家の祖父に連れられて、小学4年生の頃に
山に登ったのが最初の山でした。
登山道ではない、道無き道を歩いて半泣きしていた
のをハッキリおぼえています。
(山の反対側には観光地化した登山口があります)
なぜ祖父が僕を連れてそんなことをしたのかは
今となってはわかりませんが、
uedayasujiさんの日記を拝見し、あの時に見た
山の中の木々と、祖父の背中を思い出しました。
でわでわ
ふふふ・・コメントありがとうございます
三浦さんの快挙を観ながら山レコにもいろいろなコメントがよせられています。
わたしは、わたしの見方が正しいとは言いません、いろいろな意見があってしかるべきでしょう。
ただ、わたしは三浦さんの年齢に敬意を表わすとともに、まだ見ぬヒマラヤの空気の薄さを想像すると、とても批判がましい意見はいえないのです。
純粋に登山をわたしなりに考察しての日記です。
登山を続けて来られた意志・決意にわたしは感動しました。登山は人を育てるものです。撤退も下山もすべて包括して、なにをよりどころにそうしたのかが大事なのでしょうね。
歩いて下山してパーティの誰かが亡くなられたとすれば拍手できないでしょうね、わたしは。
わたしなりに見て未熟なプロの登山家に見える方もいらっしゃいます。もちろん、技術ではなく哲学の問題です。
そんな想いを筆にのせると・・こんな日記になりました
でわでわ
おはようございます。
きょうの日記はとてもいいですね。
私は修行僧の身の上にもかかわらず、出しゃばりの日記の数が多く言葉が多く、それゆえの不安を覚える今日この頃です。
山の中では邪念が少ないのは事実と思います。
下界だと何と邪念が多いことか。自他共に。
自分の心をピュアにさせるため、しばらく修業にいそしみます。
マニ車を100万回回しても変化は無さそうですが、汗を流す山の登り下りは確かに自分の心を磨くことに直結する気がします。
よい日記をありがとうございました。
ふふふ・・いつもお世話になっております。
マニ車とは・・また、マニアックな・・
そうか・・チベット仏教ですね
シルクロードの旅に見える最高峰の山々に人はどんな想いを抱いたのでしょうね。
純粋に山を楽しみたいものです
でわでわ
マニ車はチベット仏教ですね。
お経を読めない人が回すのでこれは日本的には大乗仏教になるのですかね?
一方、カトマンズのとあるお寺では地元の人に混じってイギリス人っぽい女性が一心に五体投地をしていました。
五体投地をしながらの巡礼の旅の姿は見たことがありませんが、これが小乗仏教になるんでしょうか?
私なんぞが偉そうに言えませんが、比叡山の「千日回峰行」なんてものは今時のトレランですよね。それ以上かも。それに続く断食不眠の苦行はまさに超ドMの世界。そんな不謹慎な言葉を使っちゃいけないでしょうが世界の宗教の中でやはり仏教の奥の深さは特異と思います。
…ああ、いけないいけない、私も修業を続けなければ…
小乗教は、個人の修行を主体に仏の境地を悟るですね
ゆえに利己主義に陥る危険があると説いてますね。
大乗は、字面のごとく大きく衆生を救うという趣旨。
お寺を作ってやったから拝みに来て徳を積めよ(笑)平たく言えばね。(マニ車もおっしゃるとおり、みなが実行できる形ですね)
教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いぞかし(経典)
人の気持ちを慮る(おもんばかる)配慮、それこそが」釈尊が目指した人格であると説かれてますね。
「五体投地」は祈りの形式ですね。巡礼こそが小乗的修行なんでしょうね。日本の四国の巡礼もそうですね。
わたしは、富士五合目のお寺に小学校一年から六年まで毎年四回春夏秋冬行かされました。早朝暗い中での富士の山と杉木立が脳裏に焼きついてます。
八万法蔵といわれる経典で法華経一部八巻ニ十八品を勉強してました。(ふふふ・・経文講義で居眠りしてましたけどね)
ふふふ・・山も空も真剣にアプローチすると命の境地があがるそうですよ。
でわでわ
ふーむ、仏教については相当お詳しいようですね。
話は違いますが、uedayasujiさんがきょうの日記で「誤謬」という言葉を使っていらっしゃたので、フロイトの「誤謬の訂正」を思い出し、その言葉を覚えた坂口安吾の「不良少年とキリスト」を修業の一環じゃないですが今読んだところです。uedayasujiさんと坂口安吾は少し似ていますね。
坂口安吾は昔相当読んだのですがあらためて昔の人は若くしても考えはしっかりしていると思いました。
話はさらに違いますが、ヤマレコユーザーの中にはいわゆる嫌な奴がいることは確かですね。おいおい尻尾か足を出してバレると思いますが、そういう魑魅魍魎の類は地獄に落ちるのがオチでしょうね。人の善意を踏みにじるのが私には一番許せないことです。
最後はちょっととある人への嫌みでした
さぁ、里山を走って修業してきますね
ふふふ・・行ってらっしゃ〜〜い
山・・行きたい・・
でわでわ
uedayasuji さま
コメ、お許しを。
さまざまご活躍何よりです。
期待してしまいます。
富士山登るときのご唱和、、、六根清浄お山は晴天
なんだかまだまだ生臭な芋です。
六根清浄・・・一根不浄
ではでは
ふふふ・・生命の源、一根・・浮上せずですなぁ
元気でなにより・・・
昔々は股間の槍を眺めながらアルプスを目指したものですがなぁ
でわでわ
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