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現在の登山道では、芦安から杖立峠に行くには途中に夜叉神峠を経由しますが、以前は夜叉神峠手前に杖立峠との分岐があったようです。
古いガイド本のコースタイムから計算すると、その分岐点は夜叉神峠30分位手前になります。
また、現在のルートでは、夜叉神峠から杖立峠までは尾根の西側になっていますが、略図なので信頼性は?ですが古い地図(写真中央)では尾根の東側になっています。
昭和6年発行の平賀文男氏の著書では「(杖立)峠から降りれば広河原、峠から右に径を進んで辻山を超え・・・」とあり昭和10年発行の三省堂の「南アルプス 八ヶ岳連峯」の地図(写真左)と合致しません。
また杖立峠の位置が昭和10年の地図(写真左)では現在の地形図に記されている位置より北側になっています。
普通に山を越えるとなると最も低い鞍部を超えるはずだと思いますが、麓からその鞍部に至るルートが、登りきって直接鞍部に至らずに稜線を経ているとしたら、何処を「峠」と呼ぶべきかわかりません。
私は大ナジカ峠の途中からこの昭和10年の地図にある杖立峠めがけて登る道があったのではと思いましたが、無さそうです。
杖立峠は何処にあったのか?現在とは違うルートだったのか?謎です。
夜叉神峠の歴史は古く、江戸末期天保年鑑に儀助という木曽の総杣頭が、江戸城修理の御用材の調達に野呂川沿いの御料林に入り、針葉樹の大材一万石を切り出したという記録があるそうです。
その記録によると、芦倉(南アルプス市芦安芦倉)から夜叉神(鮎差)峠を越えて鮎差に下り、川を遡って広河原に拠点となる山小屋を建設したそうです。
また食料などは北沢峠を越えて高遠から調達したそうです。
『歴史と自然 甲州の峠』によると芦安(芦倉)から野呂川に通ずる古道は、ヒソキバ道、杖立峠道、鮎差道、カンバ沢道、ドノコヤ峠道があったそうです。
ヒソキバ道というのは杖立峠〜南御室小屋〜高嶺〜白鳳峠、カンバ沢道というのは高谷山の肩にある桧尾峠を越えキリバキ沢?にそって下り対岸のカンバ沢(参考写真右)至る道だそうで、昭和10年の地図にも記載がありません。
いずれ、最も古くからあったのは鮎差道(夜叉神峠)のようです。
過去の北岳への登山ルートについての日記は以下より
https://www.yamareco.com/modules/diary/41125-detail-179120
参考文献(最近読んだ本)
〔★★★〕『南アルプスと其渓谷 時間記録と費用概算』《平賀文男》1931年(昭和6年) [朋文堂]
写真 中央、右はこの本による、『赤石渓谷』より古い
〔★★★〕『歴史と自然 甲州の峠』《和泉 定広》1994年(平成6年) [山梨日日新聞社]
〔★★★〕『山の巡礼者たち 山梨登山百年』《山梨日日新聞社編》2000年(平成12年) [山梨日日新聞社]
山梨の登山の歴史がわかる本、山梨県出身の登山者の事や、県内で起きた遭難について詳しい。なんで「山の巡礼者たち」などというタイトルを付けたのか?
「南アルプス 八ヶ岳連峯」の著者の一人である細井吉造が山梨県甲府市出身であることをこの本で知った、暴風雪の中央アルプスで絶命、32歳だった。
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