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私も地元の高社山や里山へ行く際に自家用車を利用しない場合は、家の玄関が登山口である。
登山をする人の全ては家の戸が登山口になりえるが、やはり時間と言う制約が有り自家用車を始め公共交通機関の利用は否めない。
交通の手段として鉄路はもっともポピュラーであるが、その発祥はご存知の通り新橋−横浜の営業運転である。

当時の新橋駅は現在の汐留駅(貨物)でしたが、東京駅の開業と共に今の新橋駅に移り構内には記念碑も建てられているが、横浜駅も今の場所とは大きく違い桜木町駅に在った。
☆参考までに以下のリンク先をご案内しますのでご参照ください。
http://touyoko-ensen.com/syasen/yokomoto/ht-txt/yokohama01.html
諸事情により2回駅が移転し、現在の横浜駅が3代目である。
モノ心着いた頃は駅ビル・高島屋・三越・天理ビル・ダイヤモンド地下街などが立ち並び、好日山荘横浜西口店も出店していたようだ。
因みに戦後30年代前半の話である。

ベイエリアは日本の鉄路発祥の地と共に海外貿易の拠点の一つとして貨物輸送が盛んになり近代国家の成長を物語る場所でもある。
同じ港町は北海道での鉄道発祥の地、小樽とよく似た所を感じる。
起点の手宮駅は廃止され現在は小樽市総合博物館(旧・小樽交通記念館)になっている。
☆参考までに以下リンク先をご案内しますのでご参照ください。
http://hamadayori.com/hass-col/transp/Tetudo-Otaru.htm
前置きが大分長くなりました。
形は違えどもこうして後世へ受け継がれる鉄道遺構(日本文化=人の営み)は何故が喜びが込み上げるばかりでなりません。
特にこのベイエリアは現在の営みと対比が出来る構図、これは山麓の下界と天井である稜線の対比と、どこか同じ臭いがして来ます。
時代と高低差という大きな違いは有りますが、人は不便にも関わらず山へ登りテントや山小屋などで生活をします。
一方それが時には親子や世代を超えて、「親父や爺様が若い頃歩るいた登山道なんだよな」と言う山行記録の様な「つながり」は、お涙頂戴と感じてしまいます、はい最近はそうなんです。
これも「鉄路つながり」「世代つながり」の大きなつながり違いではありますが、・・・・
初回から大分肩の力が入った内容になりましたが、そんな気持ちで訪れた鉄道遺構を日記で徐々に紹介を致して参ります。
左:夜のベイエリア風景
中:当日飛び込みで入ったホテル
右:振り返るとランドマークタワー
補足:赤レンガ倉庫へ向かう旧貨物線路跡を遊歩道公園にし、しかもその線路をまたぐ様に作られたホテル、どうしたらその様に洒落(遊び心)を効かせられるのか感心致しました。
私にとってのベイエリアは1959年頃から父の仕事の関係で、蒲田からクリーム色の国鉄73系に乗り
桜木町まで良く行っていました。
今の赤レンガ倉庫付近は、その当時は新港埠頭(センターピアー)と呼ばれ一般の人たちが立ち入れないところに、たくさんの貨物線路が引かれていた事を良く覚えている非常に大好きな場所でした。
その影響で今でもこのエリアには年1度は
訪れ良き懐かしい昔を思い出しています。
鉄道遺構日記これからも期待しています。
kazuhiさん、コメント有難うございます。
ベイエリアと言うより新港埠頭を良くご存知とは恐れ入りました。
私は中〜高校学生時代なので1980年代になります。
当時赤レンガ倉庫まで線路が来ていて一部旅客用?(屋根なし)のホームが有ったのを覚えています。また埠頭の多くが金網に囲われていましたが、一部壊れている場所が有り、そこから入り探索しました。生ビール樽の様なアルミのドラム缶が山積みにされて長期保管されていて、一部トップの小窓が外れているモノが有りました。中には琥珀色の石?「ご謹製、それともご禁制」の品ではと感じワクワクしながら楽しんでいました。
今は時効という事で・・・・
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